日本歴史地名大系 「桑折村」の解説
桑折村
こおりむら
現桑折町の中心で、阿武隈川左岸に位置。南西部を
永仁五年(一二九七)九月一三日の関東下知状(伊達家文書)に伊達郡内「桑折郷田在家」とみえ、桑折心円の息女藤原氏女が、郷内の田在家を兄時長に押領されたと訴えたが、時長は氏女の所持する譲状は謀書と陳述、結局時長は同郷を安堵され、氏女は謀書の咎に処されている。桑折氏は伊達氏の庶流で、心円は伊達三代義広の庶長子親長と推定される。元弘三年(一三三三)伊達貞綱は同年三月からの合戦の恩賞として同郷内田在家などの安堵を申請し、九月八日に陸奥守北畠顕家から認められている(同年八月日「伊達貞綱安堵申状」南禅寺文書)。南北朝時代になると、桑折氏は嫡流の伊達行朝から離れて北朝方に転じ、延文元年(一三五六)六月六日の足利尊氏御教書(伊達家文書)によると、伊達長門入道(桑折政長)が桑折郷を安堵されている。
桑折村
こおりむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報