桜池(読み)さくらいけ

日本歴史地名大系 「桜池」の解説

桜池
さくらいけ

[現在地名]粉河町北志野

北志野きたしの北方にあり、松井まつい川の上流志野川を塞止めて造った用水池。「続風土記」は「堤百五十間、水の懸り高七千百石五許、慶安三年庚寅の春南竜公御指揮を以て作らせらる、桜田といふ地に池を作らせられしより、その池を桜池と名つけ給ひ、桜を池の主と称して植させ給ひしとて今も数株あり、又池を守護する者あり」と記している。当池は松井川の各所に設けた井堰よりの揚水を各村の持池に溜めて灌漑用水としていたが、水量は少なく、川上と川下、あるいは川の東西で水論が度々起こったために藩の直営事業として造られたものである。


桜池
さくらいけ

[現在地名]斑鳩町大字法隆寺

法隆寺の西、西里にしさとにある。延長六年(九二八)の内供奉十禅師禎果弟子等解(吉田文書)にみえる平群へぐり郡八条一〇里一坪の西の「蟇田中池」にあたり、延久四年(一〇七二)の前権律師某解案(水木直箭氏蔵文書)によると、平群郡八条一〇里一四坪が字「蟇田池坤」である。延久年間、蟇田ひきた池東南の山野を切開いて、法隆寺浄土教の枢要寺院となった開浦さくら三昧堂(開浦院)が創建された(天永二年「開浦院住僧解」)。しかし、大治元年(一一二六)に開浦三昧堂を改めて法隆寺内に三経さんきよう院が造立され、天承二年(一一三二)には八条一〇里一四・二二坪の開浦三昧堂敷地は三経院に施入(法隆寺文書)、仁平四年(一一五四)頃には畠地と化していた(京都大学所蔵文書集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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