日本歴史地名大系 「桜間村」の解説 桜間村さくらまむら 徳島県:名西郡石井町桜間村[現在地名]石井町高川原(たかがわら) 桜間市楽(いちらく)村の北に位置し、東は名東(みようどう)郡桜間村(現徳島市)、西は加茂野(かもの)村、北は名東郡芝原(しばはら)村(現徳島市)。天正一七年(一五八九)五月二八日の下羅井番水定書(坂東家文書)に村名がみえる。同年の検地帳(土井家文書)によれば高一六七石余。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「さくらま」とみえる。同二年の分限帳によると稲田又八郎が一六七石余を知行。正保国絵図でも高一六七石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方五五石余・畠方一一一石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高一五二石余。同年の富田藩領地方帳によれば、富田藩の家臣に与えられた分として高二石余があり、物成一石余、請麦秋納枡六ツ一分六厘、内麦八斗余とある。 桜間村さくらまむら 徳島県:徳島市旧名東郡地区桜間村[現在地名]徳島市国府町桜間(こくふちようさくらま)池尻(いけじり)村の西にあり、北は芝原(しばはら)村、西は名西(みようざい)郡桜間村(現石井町)。讃岐街道の脇道(八幡街道)がほぼ東西に通る。「和名抄」記載の名西郡桜間郷の遺称地とされる。寛文四年(一六六四)までは以西(いさい)郡に属した。東桜間村ともよばれた(「阿波志」など)。天正一七年(一五八九)五月二八日の下羅井番水定書(坂東家文書)に桜間村とみえる。当村は中世から下羅井(したらい)用水によって灌漑されていたとみられ、同定書によれば番水は六番・一二時と決められていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by