植崎九八郎(読み)うえざきくはちろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「植崎九八郎」の意味・わかりやすい解説

植崎九八郎
うえざきくはちろう

生没年不詳。江戸後期の下級幕臣寛政改革を主導した老中首座松平定信には、武士から農民まで社会各層から上書(じょうしょ)が提出された。なかでも、植崎が1787年(天明7)7月に提出した上書は、運上金中止や銭相場引き上げなど、その内容は多岐にわたり、当時の世評では一番の上書とされた。ところが、1801~1802年(享和1~2)には、定信の施政、その後継者である老中首座松平信明(のぶあきら)の施政を痛烈に批判する上書「牋策雑収(せんさくざっしゅう)」を提出する。役職に就けなかったことへの不満が執筆の動機とされるが、質量ともに天明7年の上書を超える内容をもっており、寛政改革実像を理解するうえで重要な史料である。この時期、植崎のように幕政を痛烈に批判する幕臣が存在したことも特筆されるが、この上書が当局の忌諱(きい)に触れた植崎は、改易されてしまう。

[安藤優一郎]

『「植崎九八郎上書」「牋策雑収」(滝本誠一編『日本経済大典 第20巻』所収・1968・明治文献)』

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朝日日本歴史人物事典 「植崎九八郎」の解説

植崎九八郎

生年:生没年不詳
江戸後期の下級幕臣。寛政改革を遂行した老中松平定信は,武士から農民まで各層から提出された上書を,その政策に取り入れた。なかでも,植崎が天明7(1787)年7月に提出した上書は,江戸市政に関する意見を中心に,その内容は多岐にわたり,当時の世評では一番の上書とされる。また享和1~2(1801~02)年には,老中時代の定信の施政,老中首座松平信明の施政を痛烈に批判する上書も提出した。これは,質量ともに天明7年の上書を超える内容を持ち,寛政期(1789~1801)の幕政,社会状況を理解するうえで重要な史料である。すでにこの時期,植崎のように幕政を痛烈に批判する幕臣が存在したことは特筆される。<著作>「植崎九八郎上書」「牋策雑収」(復刻,『日本経済大典』20巻)

(安藤優一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「植崎九八郎」の解説

植崎九八郎 うえざき-くはちろう

1756-1807 江戸時代中期-後期の武士。
宝暦6年生まれ。幕臣で小普請組。天明7年老中となった松平定信に上書を提出し,前老中の田沼意次(おきつぐ)への批判と政治・経済改革を建言。定信の寛政の改革が失敗におわるとふたたび建議書「牋策(せんさく)雑収」を上呈,定信を批判した。文化4年死去。52歳。本姓は成田。名は政由。

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