江戸中期の老中。遠江(とおとうみ)国(静岡県)相良(さがら)城主。幼名は竜助。主殿頭(とのものかみ)と称す。享保(きょうほう)4年田沼意行(おきゆき)の嫡男として江戸に生まれる。意行は、紀州徳川吉宗(よしむね)の青年時代から近侍、吉宗の徳川宗家(そうけ)継統に際して随従した新参の旗本(小姓(こしょう)→小納戸頭取(こなんどとうどり)となる)。意次は1734年(享保19)に世子家重(いえしげ)付きの小姓を振り出しに、家重が徳川9代将軍となると、彼が隠退するまでその側近として勤仕、昇進した。51年(宝暦1)御用取次となり、58年加増され1万石となって大名に列した。翌々年10代将軍家治(いえはる)に代替わりしたが、意次はとくに前代の「またうと(全人=正直な人)のもの」だから、ゆくゆく目をかけて用いよとの遺言で、むしろ家治の代に目覚ましく出世した。67年(明和4)側用人(そばようにん)に昇進、遠江国相良城主(2万石)となる。ついで老中格となって初めて表役人として正規の幕閣首脳の一員となり、72年(安永1)本丸老中=加判に列した。表役人となっても依然として奥兼帯(けんたい)だったので、側用人の役割を老中になっても保持していたことになる。しかも家治代にはしばしばの加増で5万7000石になった。意次の出世ぶりは目を見張るものがあり、とくに嫡男の意知(おきとも)が83年(天明3)若年寄となり父子相並んで幕閣首脳に列したとき、世間では飛ぶ鳥を落とす勢いと評したが、意次昇進の道はすぐ先任の大岡忠光(ただみつ)、板倉勝清によって前例がつくられており、その延長線上に意次の栄達があって、いうなれば宝暦(ほうれき)期(1751~64)以後の幕府の側近政治がもたらした結果だった。
普通、田沼意次の政治というと賄賂(わいろ)公行=汚職政治の代名詞のように認識される傾向がある。確かに意次の行動の軌跡には明白な痕跡(こんせき)をとどめているとはいえよう。しかし彼に関する悪評の多くは、田沼没落後の噂(うわさ)話というだけでなく、失脚に追い込んだ反田沼派による儒教的批判に基づいた評価でもあった。田沼政権の多くに結び付けられた当代の経済政策の大半は、田沼よりも、むしろ前任老中だった松平武元(たけちか)(上州館林(たてばやし)藩主)の主導下に実施されたものだったように、すべて田沼に連結させる理解は歴史的に正しくない。しかし松平武元没後の田沼全盛期の天明(てんめい)年間(1781~89)になると賄賂が公行して幕政に作用したようで、このころになると封建支配層はじめ広く社会的に反田沼の空気が醸成された。1786年(天明6)8月、将軍家治の死を契機に突如意次は老中を失脚して幕府を追われ、二度の処罰(隠居謹慎、家督は孫の意明(おきあき)継承、1万石に減封、相良城地破却、陸奥(むつ)下村に移封)を受け、天明8年7月24日失意のうちに江戸で死に、駒込(こまごめ)勝林寺に葬られた。
[山田忠雄]
『辻善之助著『田沼時代』(岩波文庫)』▽『徳富蘇峰著『近世日本国民史 田沼時代』(講談社学術文庫)』▽『後藤一郎著『田沼意次』(1971・清水書院)』
江戸幕府の側用人,老中。父の意行は紀伊徳川家の足軽であったが,徳川吉宗が紀伊から将軍になるとともに江戸に移って旗本となった。意次は西丸御小姓を経て,1751年(宝暦1)将軍家重の御側衆,58年1万石を与えられて大名となり,62年に5000石加増,67年(明和4)側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城,69年には老中格(知行2万5000石),72年(安永1)老中,知行高も漸増した。83年(天明3)若年寄となった子の意知が,翌年佐野政言(まさこと)に江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起きたが,意次は85年には5万7000石になり,権勢をふるった。しかし86年,将軍家治の死を機に閏10月,意次は差控を命ぜられ,87年相良城も没収されて,孫意明がわずかに1万石の領主として家名を継ぐことを認められた。失脚した意次は失意のうちに,翌年死んだ。
意次が幕政の指導者として活躍した時代を田沼時代といい,1760年それまで実権を握っていた大岡忠光の死に始まり,失脚に至るまでの27年間をさす。この間の意次を中心とした政治は,幕政史の中でも特異な性格をもっていた。在株の設定や改印制度,絹糸貫目改所の設置,座・株仲間の増設などによって,展開しつつある商品生産・流通の編成にのり出し,西宮・兵庫などの収公,信州中馬(ちゆうま)裁許,過米切手売買禁止,大坂御用金賦課,御貸付会所の設置などによって,幕府財政を中心においた領主財政の救済をはかった。貿易においても銅座や俵物役所をつくって金銀の輸入につとめ,また蝦夷地の開発なども計画した。これらの積極政策によって田沼政治は評価されるが,そのことは反面において,権力と商人資本との密着した関係を強めるとともに,一般民衆の生活基盤を脆弱にし,自然災害への抵抗力をいちじるしく弱めた。また,本来の幕政の方針を踏襲すべきだという幕府内外の保守層の反感をも強め,田沼政治それ自体が政治の理論的基礎や理念をもたなかったことが,田沼政治の崩壊を結果した。
執筆者:佐々木 潤之介
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(山田忠雄)
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1719~88.7.24
江戸中期の側用人・老中。父は御家人(ごけにん)の意行(もとゆき)。1734年(享保19)将軍世子徳川家重の小姓となり,家重の将軍就任に従って本丸小姓組番頭・御側を勤め,58年(宝暦8)以降,評定所に出座し幕政を主導。この年万石以上となり,遠江国相良(さがら)藩主。67年(明和4)側用人,69年老中格,72年(安永元)老中となる。株仲間に冥加金を課して商品流通に課税。鎖国政策をゆるめて銅・俵物を輸出し,金銀を逆輸入して,それを財源に金銀通貨の一本化を企図した。また蝦夷地開発計画,大規模な新田開発工事などの斬新な経済政策を推進したが,86年(天明6)将軍家治の死の直後老中罷免。翌年所領を没収され謹慎。
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…上巻はロシア交易による蝦夷地開発を説いたもの。1783年(天明3)老中田沼意次に献上された。その結果,田沼は蝦夷地開発を計画し,調査隊を派遣したが,彼の失脚によりこの計画は中止された。…
…新田開発政策を推進していた幕府はこれを許可し,源右衛門に6000両を貸与して工事を請け負わせて着手したが,請負人,出資人の資金が不足して中断された。第2回目は,大規模な殖産興業政策を採っていた老中田沼意次の手で着手された。新田開発,治水,水運を目的に,82年(天明2)に調査を始め,85年には幕府の手で工事をおこし,翌年には計画の2/3が竣工したが,おりからの利根川の洪水により掘割も破壊され,老中田沼の失脚とともに工事も中断された。…
…
[幕政と大奥]
大奥法度にも規定されているように,表の政治に介入することは厳禁されていたが,実際には影響を及ぼしたことも少なくなかった。田沼意次が将軍家治の側妾津田氏と結んで大奥を操縦し,家斉の大御所時代には水野忠篤や中野清茂(碩翁)が家斉の側妾お美代の方との縁故で権勢を振るったなどがその例である。松平定信,水野忠邦らが失脚した原因の一つにも,その厳しい緊縮政策が大奥勢力の反感を買ったことがあげられるほどで,幕政と大奥は実際には無関係ではなかった。…
…1787年(天明7)より93年(寛政5)までの6年間,老中松平定信が中心となって断行した幕政全般にわたる改革をいう。
[背景]
寛政改革直前の社会状況は,老中田沼意次による重商主義的な政策の破綻により,農村,都市ともに深刻な危機に見舞われた。農村では農業人口が減少し,耕地の荒廃が進み,重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化した。…
…牧ノ原台地南東部に位置し,東は駿河湾に臨む。古くは相良郷,相良荘があり,江戸中期以降は田沼意次が築いた相良城の城下町,萩間川河口の港町として栄えた。1872年(明治5)に菅山で採掘が始まった相良油田は,太平洋岸で唯一の油田として知られたが,1955年以降休止している。…
…18世紀後半,田沼意次(おきつぐ)・意知父子が幕政の実権を掌握していた時代をいう。1760年(宝暦10)大岡忠光の死から,86年(天明6)意次の老中免職に至る約27年間がこれに当たる。…
※「田沼意次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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