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田沼意次 たぬまおきつぐ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

田沼意次
たぬまおきつぐ

[生]享保4(1719).江戸
[没]天明8(1788).7.24. 江戸
江戸時代中期の幕府老中。田沼意行 (もとゆき) の子。父は紀州藩の足軽で,徳川吉宗に従って江戸に入り幕臣となった。意次は 15歳のとき西の丸つき小姓として仕え,元文2 (1737) 年主殿頭 (とのものかみ) ,宝暦1 (51) 年御側御用取次となった。

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デジタル大辞泉の解説

たぬま‐おきつぐ【田沼意次】

[1719~1788]江戸中期の幕臣。遠江(とおとうみ)相良(さがら)城主。第10代将軍徳川家治側用人から老中となり、幕政の実権を掌握。積極的な経済政策を進めたが、賄賂政治が横行し、子の意知(おきとも)が城内で斬られてのち、勢力を失って失脚。

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百科事典マイペディアの解説

田沼意次【たぬまおきつぐ】

江戸中期の幕府重臣。9代将軍家重の御側衆から,10代家治時代は1767年側用人,のち遠州相良(さがら)藩2万5000石を領し,1772年老中となる。家治の治世では子意知(おきとも)とともに幕政の中枢を占め,問屋・株仲間を育成するなど田沼時代を現出した。
→関連項目赤蝦夷風説考寛政改革工藤平助側用人田沼意知ティチング鉄座徳川家治松平定信世直し

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

田沼意次 たぬま-おきつぐ

1719-1788 江戸時代中期の大名。
享保(きょうほう)4年生まれ。9代徳川家重(いえしげ),10代家治(いえはる)の両将軍のもとで,小姓から側用人,老中となる。宝暦8年遠江(とおとうみ)(静岡県)相良(さがら)藩主。5万7000石。子の若年寄意知(おきとも)とともに,田沼政治とよばれる積極的な経済政策(株仲間の育成,貨幣改鋳,蝦夷(えぞ)地開発計画など)を展開するが,天明6年家治の死を契機に失脚した。天明8年7月24日死去。70歳。
【格言など】勝手元不如意にて貯えなきは,一朝事ある時の役に立たず

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朝日日本歴史人物事典の解説

田沼意次

没年:天明8.7.24(1788.8.25)
生年:享保5.8(1720)
江戸中期の老中。幼名竜助のち主殿頭。父意行は徳川吉宗の宗家継統に随従した新参幕臣で,本丸小姓時代に江戸城内の田安御用屋敷に勤務したので意次はここで生まれた。16歳のとき将軍吉宗の世子家重の小姓となり,享保20(1735)年父の死後家督を継ぎ,元文2(1737)年主殿頭に叙任。9代将軍家重時代に出世の緒につき,本丸小姓から御用取次へと昇進し,特に宝暦8(1758)年,幕府評定所の美濃郡上藩宝暦騒動の吟味に際し,家重の命で評定所に出座し万石(大名)に列した。家重・家治2代の恩寵が厚く,10代将軍家治の代の明和4(1767)年には側用人に進み,2万石に加増され,遠江相良に築城を許され城主となった。6年老中格,安永1(1772)年には老中に進み,たびたびの加封で5万7000石を領した。 明和・安永・天明期の幕政を担当,特に天明年間は意次の全盛期で,時人も「田沼の時代」と称した。老中就任以前の意次は政治の表舞台には関与せず,将軍側近の立場を利用したフィクサー的な役割を演じていた。明和~安永期の幕府経済政策をすべて田沼の政治と結びつける考えがあるが,この時期の政治の主導権は老中主座の松平武元にあり,田沼独自の経済政策はもっぱら天明期に展開された。その主な政策に,印旛沼手賀沼の干拓,蝦夷地の開発と交易,吉野金峯山の鉱山開発,貸金会所の設置などがあるが,いずれも中途半端のまま田沼の失脚で中止,撤回された。天明6(1786)年8月家治急死の直後,将軍の小姓,小納戸らのクーデタもどきの政変で意次は老中を辞任,失脚した。11代将軍家斉の代に変わると,2度も処罰を受け(蟄居,相良城破却,藩領収公,1万石に減封,嫡孫意明は陸奥下村に転封),失意のうちに死去した。隆興院殿耆山良英大居士。墓は菩提寺の勝林寺(東京駒込)にある。田沼非難の声は権力の絶頂期からあったが,特に田沼失脚の直後にはおびただしい田沼政治糾弾の落書,落首類が巷間にあふれ出た。

(山田忠雄)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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江戸・東京人物辞典の解説

田沼意次

1720〜1788(享保5〜天明8)【老中】重商主義の優れた政策を展開するも、役人と商人の癒着を招き、無念の失脚。 老中。九代将軍家重の小姓から出世し、十代将軍家治の側用人、その後老中を兼任した。株仲間に冥加金を課税し、鎖国をゆるめての金銀輸入、大規模な新田開発を図るなど積極的な重商主義政策を展開した。その権勢から田沼時代と称された。役人の賄賂が横行、折しも天明の飢饉が起こるなど、意次への批判が高まり、子の意知が城中で刺され死亡すると、急速に力を失った。代って登場した松平定信により寛政改革が行われた。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
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世界大百科事典 第2版の解説

たぬまおきつぐ【田沼意次】

1719‐88(享保4‐天明8)
江戸幕府の側用人,老中。父の意行は紀伊徳川家の足軽であったが,徳川吉宗が紀伊から将軍になるとともに江戸に移って旗本となった。意次は西丸御小姓を経て,1751年(宝暦1)将軍家重の御側衆,58年1万石を与えられて大名となり,62年に5000石加増,67年(明和4)側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城,69年には老中格(知行2万5000石),72年(安永1)老中,知行高も漸増した。83年(天明3)若年寄となった子の意知が,翌年佐野政言(まさこと)に江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起きたが,意次は85年には5万7000石になり,権勢をふるった。

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大辞林 第三版の解説

たぬまおきつぐ【田沼意次】

1719~1788) 江戸中期の幕臣。小姓から身をおこし、将軍家重・家治に仕えて栄進を重ね、1767年側用人、遠江とおとうみ相良藩主となる。72年老中となり、積極的な経済政策を展開、田沼時代を現出した。一方、物価が騰貴し、賄賂政治が横行したため、士民の攻撃を受け86年老中を退任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田沼意次
たぬまおきつぐ
(1719―1788)

江戸中期の老中。遠江(とおとうみ)国(静岡県)相良(さがら)城主。幼名は竜助。主殿頭(とのものかみ)と称す。享保(きょうほう)4年田沼意行(おきゆき)の嫡男として江戸に生まれる。意行は、紀州徳川吉宗(よしむね)の青年時代から近侍、吉宗の徳川宗家(そうけ)継統に際して随従した新参の旗本(小姓(こしょう)→小納戸頭取(こなんどとうどり)となる)。意次は1734年(享保19)に世子家重(いえしげ)付きの小姓を振り出しに、家重が徳川9代将軍となると、彼が隠退するまでその側近として勤仕、昇進した。51年(宝暦1)御用取次となり、58年加増され1万石となって大名に列した。翌々年10代将軍家治(いえはる)に代替わりしたが、意次はとくに前代の「またうと(全人=正直な人)のもの」だから、ゆくゆく目をかけて用いよとの遺言で、むしろ家治の代に目覚ましく出世した。67年(明和4)側用人(そばようにん)に昇進、遠江国相良城主(2万石)となる。ついで老中格となって初めて表役人として正規の幕閣首脳の一員となり、72年(安永1)本丸老中=加判に列した。表役人となっても依然として奥兼帯(けんたい)だったので、側用人の役割を老中になっても保持していたことになる。しかも家治代にはしばしばの加増で5万7000石になった。意次の出世ぶりは目を見張るものがあり、とくに嫡男の意知(おきとも)が83年(天明3)若年寄となり父子相並んで幕閣首脳に列したとき、世間では飛ぶ鳥を落とす勢いと評したが、意次昇進の道はすぐ先任の大岡忠光(ただみつ)、板倉勝清によって前例がつくられており、その延長線上に意次の栄達があって、いうなれば宝暦(ほうれき)期(1751~64)以後の幕府の側近政治がもたらした結果だった。
 普通、田沼意次の政治というと賄賂(わいろ)公行=汚職政治の代名詞のように認識される傾向がある。確かに意次の行動の軌跡には明白な痕跡(こんせき)をとどめているとはいえよう。しかし彼に関する悪評の多くは、田沼没落後の噂(うわさ)話というだけでなく、失脚に追い込んだ反田沼派による儒教的批判に基づいた評価でもあった。田沼政権の多くに結び付けられた当代の経済政策の大半は、田沼よりも、むしろ前任老中だった松平武元(たけちか)(上州館林(たてばやし)藩主)の主導下に実施されたものだったように、すべて田沼に連結させる理解は歴史的に正しくない。しかし松平武元没後の田沼全盛期の天明(てんめい)年間(1781~89)になると賄賂が公行して幕政に作用したようで、このころになると封建支配層はじめ広く社会的に反田沼の空気が醸成された。1786年(天明6)8月、将軍家治の死を契機に突如意次は老中を失脚して幕府を追われ、二度の処罰(隠居謹慎、家督は孫の意明(おきあき)継承、1万石に減封、相良城地破却、陸奥(むつ)下村に移封)を受け、天明8年7月24日失意のうちに江戸で死に、駒込(こまごめ)勝林寺に葬られた。[山田忠雄]
『辻善之助著『田沼時代』(岩波文庫) ▽徳富蘇峰著『近世日本国民史 田沼時代』(講談社学術文庫) ▽後藤一郎著『田沼意次』(1971・清水書院)』

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世界大百科事典内の田沼意次の言及

【赤蝦夷風説考】より

…上巻はロシア交易による蝦夷地開発を説いたもの。1783年(天明3)老中田沼意次に献上された。その結果,田沼は蝦夷地開発を計画し,調査隊を派遣したが,彼の失脚によりこの計画は中止された。…

【印旛沼】より

…新田開発政策を推進していた幕府はこれを許可し,源右衛門に6000両を貸与して工事を請け負わせて着手したが,請負人,出資人の資金が不足して中断された。第2回目は,大規模な殖産興業政策を採っていた老中田沼意次の手で着手された。新田開発,治水,水運を目的に,82年(天明2)に調査を始め,85年には幕府の手で工事をおこし,翌年には計画の2/3が竣工したが,おりからの利根川の洪水により掘割も破壊され,老中田沼の失脚とともに工事も中断された。…

【大奥】より


[幕政と大奥]
 大奥法度にも規定されているように,表の政治に介入することは厳禁されていたが,実際には影響を及ぼしたことも少なくなかった。田沼意次が将軍家治の側妾津田氏と結んで大奥を操縦し,家斉の大御所時代には水野忠篤や中野清茂(碩翁)が家斉の側妾お美代の方との縁故で権勢を振るったなどがその例である。松平定信,水野忠邦らが失脚した原因の一つにも,その厳しい緊縮政策が大奥勢力の反感を買ったことがあげられるほどで,幕政と大奥は実際には無関係ではなかった。…

【寛政改革】より

…1787年(天明7)より93年(寛政5)までの6年間,老中松平定信が中心となって断行した幕政全般にわたる改革をいう。
[背景]
 寛政改革直前の社会状況は,老中田沼意次による重商主義的な政策の破綻により,農村,都市ともに深刻な危機に見舞われた。農村では農業人口が減少し,耕地の荒廃が進み,重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化した。…

【相良[町]】より

牧ノ原台地南東部に位置し,東は駿河湾に臨む。古くは相良郷,相良荘があり,江戸中期以降は田沼意次が築いた相良城の城下町,萩間川河口の港町として栄えた。1872年(明治5)に菅山で採掘が始まった相良油田は,太平洋岸で唯一の油田として知られたが,1955年以降休止している。…

【田沼時代】より

…18世紀後半,田沼意次(おきつぐ)・意知父子が幕政の実権を掌握していた時代をいう。1760年(宝暦10)大岡忠光の死から,86年(天明6)意次の老中免職に至る約27年間がこれに当たる。…

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