日本大百科全書(ニッポニカ) 「椎谷藩」の意味・わかりやすい解説
椎谷藩
しいやはん
越後(えちご)国刈羽(かりは)郡椎谷(新潟県柏崎(かしわざき)市椎谷)の地に陣屋のあった堀(ほり)氏1万石の藩。藩主は江戸定府(じょうふ)。越後春日山(かすがやま)城主堀秀治(ひではる)の与力大名として越後三条の地に配された堀監物直政(けんもつなおまさ)の五男直之(なおゆき)が、1616年(元和2)に椎谷に5000石および新開地500石を賜ったのに始まる。33年(寛永10)に上総(かずさ)国(千葉県)に4000石加増された。2代直景は徳川2代将軍秀忠(ひでただ)から2000石を下総(しもうさ)(千葉県)・相模(さがみ)(神奈川県)・甲斐(かい)(山梨県)の地に拝領し、父の遺領とあわせて1万1500石となった。そのうち、1500石を弟直治に譲り、椎谷藩は以後幕末まで1万石であった。3代直良、4代直宥(なおさだ)のとき下総などの地が越後蒲原(かんばら)・三島(さんとう)両郡と替地になり、初めて全所領が越後一国内となった。5代直央(なおなか)のとき椎谷に陣屋を置き、6代直恒(なおつね)以降参勤交代を行わない定府大名となる。11代著朝(あきとも)のとき、天明(てんめい)義民事件が発生、その責任をとらされて、藩主が堀氏とは無縁の三河国(愛知県)西尾藩(6万石)の松平乗祐(のりすけ)の三男彦弥にかえられ、名を直起(なおのり)と改め12代藩主となった。またそのとき越後の5000石を信濃(しなの)国(長野県)に替地を命ぜられた。16代之美(ゆきよし)のとき1871年(明治4)の廃藩置県を迎え、椎谷県、柏崎県を経て86年新潟県に編入された。
[中村義隆]
『磯貝文嶺著『椎谷藩史』(1966・椎谷藩史研究会)』