横塚村(読み)よこつかむら

日本歴史地名大系 「横塚村」の解説

横塚村
よこつかむら

[現在地名]境町横塚

長井戸ながいど(現在は水田)西枝西方に所在。周囲に平地林があり、北は台地上に久能くのう(現総和町)、東は沼を隔てて志鳥しとり村・稲尾いなお村、南は高野こうや(現総和町)。志鳥村から当村を経て塚崎つかざき村に入る鎌倉街道がある。村域南部、長井戸沼を東にみる台地にある毘沙門塚びしやもんつか古墳群中の毘沙門塚古墳は前方後円墳で、全長約六〇メートル、高さ約七メートル。直刀や埴輪が出土。また横塚古墳群には三〇基ほどの古墳があったといわれるが、現在は円墳三基のみ。


横塚村
よこづかむら

[現在地名]沼田市横塚町

東は上久屋かみくや村、南は下久屋村、北西は奈良なら村、北東は生品なましな(現利根郡川場村)上古語父かみここぶ(現同郡白沢村)、南西は沼田城下に接し、沼田台地の北東部を占める平坦地にある。元和二年(一六一六)沼田城用水(白沢用水)の補強として開削された川場かわば用水が当村内を通ったのを機に、藩主真田信幸は家臣出浦対馬守に命じ当村を宿割し、「諸郷のちまた」として三・七の市日に塩の売買を許可(「古今沼田真田記」武井文書)。寛永二年(一六二五)には藩主真田信吉は諸役を三年免除して新田開発を奨励し、馬市の市立ても許可している(「真田信吉朱印状」鈴木文書)

寛文郷帳では高二一三石余、うち田方七石余・畑方二〇五石余。


横塚村
よこづかむら

[現在地名]郡山市横塚一―六丁目・芳賀はが一―三丁目・北畑きたばたけ佐野良さのら越渡こしわたし上野山かみのやま下河原しもがわら柳原やなぎはら下館野しもたての古屋敷ふるやしきなど

郡山村の東、東流する逢瀬おうせ川が阿武隈川に合流する地点の南西岸平地に立地。慶長年間(一五九六―一六一五)に整備される前の奥州道中がもとの横塚本村(旧字古屋敷、現横塚五丁目)を通っていたという(「貞一聞書」郡山市史)。旧字木戸前きどまえ(現横塚六丁目)は古街道関連地名とみられる。


横塚村
よこつかむら

[現在地名]協和町横塚

小貝こかい川左岸の段丘上にあり、東は蓮沼はすぬま村。江戸時代は天領旗本領で、明和六年(一七六九)の村鑑明細帳(谷口家文書)によれば、村高五二二石余、家数四六・人数一五六(男九二、女六四)、馬八疋。延享三年(一七四六)に神尾若狭守の新田検地があり、高七八・七〇六石が打出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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