沼田城下(読み)ぬまたじようか

日本歴史地名大系 「沼田城下」の解説

沼田城下
ぬまたじようか

利根川および同川の支流片品かたしな川・薄根うすね川などにより形成された沼田段丘の高位段丘面沼田台地上にあり、同台地北西の崖端につくられた沼田城の城下町。郷帳類・記録類では沼田町と表記されることが多く、現沼田市の中心市街地にあたる。

沼田台地は用水を欠き高燥のために、築城以前は滝棚たきだなの原とよばれる一面の山林原野であったという。桑原家本「沼田根元記」などによれば、沼田氏は天文元年(一五三二)沼田城を築城、台地北側にあった幕岩まくいわ城より移り、同時に東方の片品川支流白沢しらさわ川より三里掘割って水を引き用水とし、永禄三年(一五六〇)には沼田台地の西側崖下根岸ねぎし(榛名村)の住民を移して、城の東・南を囲むように材木ざいもく町・ほん町・鍛冶かじ町の三町を割立てたとされる。この町立ての年代を確定する他の史料は見当らないが、永禄三年は上杉謙信が北条勢を追って入城した年であり、城下整備がこの時期に行われたという点は興味深い。現在の沼田市中心域に城下町が成立する以前から、沼田の地(沼田氏の居館を中心とした地域)が交通の要衝であり、都市的な発達をみていたことは「太平記」「梅花無尽蔵」によっても確認でき、上杉氏はこういった性格の周辺地域を城下に再編していったのであろう。この前年八月七日の北条家印判状写(武州文書)によると、すでに「御国御免」になった長吏源左衛門が沼田道者に横槍を入れ、沼田本屋敷を押領している。長吏の存在は城下町編成・支配と不可分の関係があると指摘されており、小田原北条氏支配以来都市支配が進行していたことがわかる。また永禄一一年には武田氏との緊張関係が深まるなかで、配下の国衆たちが「城外ニ在宿」しているという噂を聞いた謙信が「皆々城内ニ引寄、以前申付候(曲)輪ニ可差置候」と在番衆たちに厳命している(同年正月八日「上杉輝虎書状」双玄寺旧蔵文書)

天正一八年(一五九〇)初代沼田藩主真田信幸が沼田城に入る。翌一九年信幸は新たにあら町・鷹師たかし(鷹匠)町・小人しようにん町の三町を割り(「沼田町記」延享五年写分)、以後真田氏により城下が整備されていく。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報