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埴輪 はにわ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

埴輪
はにわ

日本の古墳の装飾として墳丘上あるいはその裾部に並べ置かれた土製品。円筒形をしている円筒埴輪と人物,家,動物,器材などをかたどった形象埴輪の2つに区分される。前者は墳丘の表飾として,あるいは墓域を示すために置かれ,後者は葬送の儀礼,あるいは祭祀などに関連して墳丘の頂部や墳丘上の各所に置かれたと思われる。形象埴輪には衣服,装飾品,武器その他当時の生活を表わすものも多く,また素朴ななかに,よく感情を表現しており,美術史研究の対象にもなっている。埴輪の起源については野見宿禰が殉死の代用としてつくることを献策したという伝説がある。形のうえからみると,岡山県などで発見された,弥生時代後期から古墳時代にかけてのものといわれる器台,円筒などが埴輪につながるのではないかといわれている。

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デジタル大辞泉の解説

はに‐わ【×埴輪】

《土で作った輪の意》4~7世紀ごろ、古墳の上または周囲に立て並べた素焼きの土製品。弥生時代の壺(つぼ)をのせる器台を起源にもつ円筒埴輪と、人物・馬・猪(いのしし)・犬・鶏・水鳥・盾(たて)・靫(ゆぎ)蓋(きぬがさ)・家などの形をした形象埴輪に大別される。

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百科事典マイペディアの解説

埴輪【はにわ】

古墳の墳頂,墳丘の縁,濠の外堤に並べられた素焼の土製品。円筒埴輪と形象埴輪に大別される。円筒埴輪には朝顔形埴輪を含む場合もある。形象埴輪には,家形埴輪動物埴輪人物埴輪,武器,日用器具をかたどった器財埴輪などがある。
→関連項目赤堀茶臼山古墳岩戸山古墳応神陵挂甲五色塚古墳桜井茶臼山古墳垂仁天皇石人石馬月の輪古墳造山古墳津堂城山古墳テラコッタ野見宿禰土師氏

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防府市歴史用語集の解説

埴輪

 古墳の表面にならべる土製品です。筒型のものと人や家・道具などの形をしたものの2通りに分けられます。

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世界大百科事典 第2版の解説

はにわ【埴輪】

表飾として古墳に樹立した土製品の一種。円筒埴輪形象埴輪とに大別する。円筒埴輪は筒形を呈し,外面に箍(たが)状の突帯を巡らせ,突帯間に孔をうがつ。突帯数は2~6本で,孔形には三角形,方形,円形などがある。円筒埴輪の一種として,上部がくびれて口縁部が大きく外反するものがあり,これを朝顔形円筒埴輪と別称する。それに対し,単純な筒形品は,ふつう円筒,円筒形埴輪などと呼ばれる。一般に円筒は,弥生時代のある種の器台形土器を祖型とし,朝顔形円筒埴輪の起源については,その器台に壺をのせたものを一体の土製品として作出した,と説かれている。

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大辞林 第三版の解説

はにわ【埴輪】

古墳の外部に並べられた素焼きの土製品。円筒埴輪と形象埴輪に大別され、後者は家形埴輪・器財埴輪・人物埴輪・動物埴輪に細分される。聖域を示すために並べたとも、墳丘土の崩壊を防ぐためともいわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

埴輪
はにわ

古墳の墳丘上あるいは外堤などに立て並べられた素焼の土製品。円筒埴輪と形象埴輪(家形、人物、動物など)とに大別される。[橋本博文]

起源

埴輪のなかでもっとも早く出現する円筒埴輪の祖型は、吉備(きび)地方(岡山県と広島県東部)の弥生(やよい)時代後期の墳墓で儀器化した「特殊器台」と称される土器である。この食物供献(きょうけん)用の壺(つぼ)をのせる器台形土器が古墳の創出に際して畿内(きない)に受け入れられ、それが形式化し、退化・変容したものである。円筒埴輪の胴部には箍(たが)ともよばれる突帯とその間に透孔(すかしあな)と通称される孔がある。その孔には、巴(ともえ)形、三角形、方形、半円形、円形等々がみられるが、それらは先の特殊器台の名残(なごり)である。また、古い時期に外面を赤色塗彩するのもその伝統である。さらに、先の器台と畿内地方出自の有段口縁(こうえん)底部穿孔(せんこう)の壺が合体して朝顔形円筒埴輪が生み出された。一方、形象埴輪では家形埴輪などがいち早く現れたようであるが、こちらも吉備の弥生時代後期の墳墓である女男岩(みょうといわ)遺跡(岡山県倉敷市)の出土例が注目される。しかし、その器台の上にのった家形土製品と通有の家形埴輪との間には時間的空白があり、溝は埋まっていない。人物埴輪では、同じく岡山県楯築(たてつき)弥生墳丘墓出土の人形土製品の出土が興味深いものの、5世紀代の人物埴輪とは懸隔が認められる。
 人物埴輪をはじめとする形象埴輪の起源説話として、『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇32年の条が著名である。皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の死に際し、土師(はじ)氏の祖である野見宿禰(のみのすくね)の建策によって、殉死にかえ、人馬および種々の物をかたどった土製品を陵墓に立てたとされる。また、それを「埴輪」ないし「立物(たてもの)」とよんだとある。「埴輪」とは、埴すなわち粘土で種々に造形し、素焼きしてできた器物を輪のように古墳に立て並べたところから名づけられたとも、粘土の輪ということで、土製円筒形の焼物(=円筒埴輪)をさした用語ともいわれている。あるいは、各種埴輪の基本的成形法が、粘土紐(ひも)の輪積み、巻き上げであるところからついたものとも考えられる。この埴輪起源説話は、各種形象埴輪出現の考古学上の知見と対応しない。これは、陵墓造営、埴輪製作などに従事した土師氏が祖先顕彰のために造作したものと考えられている。中国の俑(よう)や、北部九州の石人・石馬との関係で大陸の石人・石獣などの影響による出現説もある。[橋本博文]

製作法

粘土紐の巻き上げか輪積みによって中空に造形し、付属物は粘土塊を貼(は)り付け、人物埴輪の目・口などは小刀でくりぬいて表現する。家・舟・器財埴輪は、粘土紐の積み上げ、粘土板の組立てによって成形している。表面は木っ端やへら、指でなでて仕上げる。前者の場合には、年輪の影響で「刷毛目(はけめ)」と通称する条線、擦痕(さっこん)がつく。文様などは焼成前にへらで刻み付けたり、線描(が)きしたり、彩色を施したりする。赤(べんがら)、白(たんぱく石)、黒(不明)などの顔料があり、衣服や装身具、携行品などの部分を彩色する。人物埴輪の顔面彩色やへら描きは、化粧、黥面(げいめん)(入れ墨)などといわれているが、平時のものではなく、葬時の儀式用のものとする説もある。
 動物埴輪のうち四足獣は多く四つ脚につくるものの、千葉県小川台5号墳の鹿(しか)形埴輪や、同殿塚(とのづか)古墳の犬形埴輪のように前後1本ずつの台に省略しているものもある。鳥や魚、器財埴輪、人物埴輪の半身像・全身像はいずれも一つの円筒器台に取り付けるが、例外的に小川台5号墳の一部人物埴輪全身像のように、円筒器台を欠くというか兼ねるというか2本脚で立つものも認められる。また、背面の表現を省略した例もある。馬形埴輪などの頭部・脚部などの造りから製作集団の技法の系譜を考えうる。
 埴輪は一本造りを原則とするが、特殊な例として、人物埴輪の上半身と下半身とを分離造形する茨城県馬渡(まわたり)窯などからの供給例もある。群馬県塚廻(つかまわり)1号墳、奈良県磯城(しき)郡田原本(たわらもと)町羽子田(はごた)の盾持(たても)ち人埴輪の頭部と盾部、塚廻3号墳の盾形埴輪、大刀(たち)形埴輪の本体とその器台も別造りである。これは焼成・運搬に適しよう。
 造形の終了したものは工房内で陰干しされたのち、窯詰めされた。古くは地面をすこし掘りくぼめた中で野焼きし、5世紀中ごろ以降は朝鮮半島から導入された窖窯(あながま)において900℃前後の高温で焼かれた。失敗品は灰原(はいばら)に掻(か)き出され、製品は窯場に付設された集積場に運ばれて、古墳への樹立のときを待った。
 なお、まれには円筒埴輪や一部の形象埴輪に、須恵器(すえき)や韓(かん)式系土器にみられるような叩(たた)きによる外面の整形痕(こん)やその際の内面の当て具痕の残る例が知られる。これなどは、その製作に須恵器工人や韓式系土器の製作者の一部が関与しているものと思われる。東海地方などには、須恵器の窯で併焼され、還元炎のため硬質・青灰色になった、通称「須恵質埴輪」もある。
 また、窯場では火神に対しての祭祀(さいし)が行われたと考えられ、窯址(ようし)中より石製模造品の剣形や有孔円板、臼玉(うすだま)などの出土した例がみられる。[橋本博文]

種類と性格

埴輪は単体で存在するのではなく、各種が組み合わさって一つの世界を表現する。とくに、人物埴輪に関しては、(1)殉死の代用、(2)墳墓装飾、(3)葬列、(4)供養(くよう)、(5)殯(もがり)、(6)首長権継承儀礼、(7)生前のようすなどを表現したものという解釈がなされている。椅子(いす)に座す首長とおぼしき貴人を中心に、ひざまずく男子。巫女(みこ)は鈴鏡(れいきょう)などを下げ椅子に座って首長に杯(さかずき)を勧めるしぐさのものが多い。まれに大刀を持つものもある。酒杯を捧(ささ)げ持つ女子、踊る女子などの祭宴集団、鷹匠(たかしょう)・鵜(う)匠・猪飼(ししかい)・馬飼・農夫などの職業集団、太鼓(たいこ)打ち・鼓(つづみ)打ち・琴弾(ことひ)き(男子)などの楽人集団、盾持ち人・靫負(ゆぎお)いなどの武人集団、そのほか祭儀に参加する盛装の男子・女子などがある。動物は、先の馬飼とセットで飾馬具をつけた儀式用の馬が多く、なかには裸馬や騎馬人物を表現したものもある。祭儀にかかわる鶏も多い。首に鈴を下げた犬は猟犬と考えられ、矢を射掛けられた手負いの猪(いのしし)や鹿、鷹、水鳥、魚などは狩猟・漁労に関係する王の遊び=儀礼、供物(くもつ)を暗示している。ほかに牛・猿などがある。
 家形埴輪群は、群馬県赤堀茶臼山(ちゃうすやま)古墳例をはじめとして、首長の生前の居宅を構成する各建物を表しているものと推考されるが、殯屋(もがりや)などの説もある。一方、囲形(かこいがた)埴輪なる、上縁が山形を呈し側面に水平に突帯を2、3条巡らした平面L字形の筒抜けの埴輪がある。これは、家形埴輪群の前面に置かれるか、家形埴輪群のなかでも主要な建物を表現したものをこの中に入れるかして使用された埴輪である。居宅の柵(さく)列、門などの外郭施設を写したものであろう。
 盾、靫、大刀、鉾(ほこ)、鞆(とも)、蓋(きぬがさ)、翳(さしば)などの器財埴輪は威儀の具とされる。帽、椅子もある。
 なお、同一古墳の人物埴輪群中で、全身像と半身像との差は身分の高低・貴賤(きせん)を表しているものと考えられる。盛装男子(文人)・挂甲(けいこう)着用武人・盛装女子などは全身像で、農夫・馬飼い・踊る女子などは半身像でおのおの表現する。墳形・時期によって種類に違いがある。[橋本博文]

各種埴輪の出現・消長

器台形円筒埴輪は前期にのみ認められる。やや遅れるものの普通円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪は、およそ埴輪の初現から消滅までの全期間存在する。楕円(だえん)円筒埴輪、鰭付(ひれつき)円筒埴輪は前期の後半から中期の前半にかけて大型古墳に樹立される。壺形埴輪は前期を中心につくられ、中期以降は激減・消滅する。家形埴輪は囲形埴輪とともに前期から現れる。器財埴輪のなかで、盾、靫、蓋などが前期に出そろい、中・後期に至る。甲(よろい)、冑(かぶと)、草摺(くさずり)などは中期を中心に存在し、後期には単体でつくられなくなる。鞆、翳が中・後期にみられ、新しく大刀が後期に主要なセットに加わる。
 動物埴輪では、鶏形埴輪が古く前期末からは知られ、水鳥形埴輪が中・後期に認められる。一部の動物埴輪の出現に関連して、中期の魚形などの小形土製品の出土が注目される。馬形埴輪は中期から出始めるようで、後期に一般化する。そのほか、犬、猪、鹿などの多様な動物埴輪が後期に多くつくられる。このうち、猪形埴輪は猪飼の人物埴輪との関係が示唆される。大阪府昼神車塚(ひるがみくるまづか)古墳などのように、犬と猪とがセットで置かれ、狩猟の場面を表現しているものもある。人物埴輪は中期に初出し、後期にとくに関東で盛行する。すべてが7世紀初めには消滅する。[橋本博文]

編年

従来、埴輪の年代観は、出現差のある形象埴輪の組合せなどに力点が置かれ語られてきた。最近では、埴輪をもつ古墳に普遍的に存在する円筒埴輪の製作技法上の変化が重視されるようになった。以下、5期に編年細分する。
 期(4世紀中葉)――外面定型化しない二次調整、巴(ともえ)形・三角形・長方形などの透孔が同一段に4孔以上。
 期(4世紀後葉)――外面(がいめん)中止横刷毛目(よこはけめ)主体、期の透孔に円形が加わる。断面M字形の突出度の高い突帯。
 期(5世紀前半)――外面断続横刷毛目主体、当期まで野焼きで、焼きむらの黒斑(こくはん)をもつ。円形、半円形透孔も多い。
 期(5世紀後半)――外面断続横刷毛目主体、窖窯焼成で黒斑を欠く。
 期(6世紀)――外面一次縦(たて)刷毛目のみ。ほぼ円形透孔に統一されるが、地域によっては前半は半円形透孔、一部赤色塗彩が残る。また、外面連続横刷毛目も一時期みられる。
 以上は、おもに畿内を中心とする編年であり、各地域ごとの検討が望まれる。
 形象埴輪においては、馬形埴輪や甲冑(かっちゅう)埴輪は、その表現された飾馬具や甲冑の型式編年からその年代をおよそ知りうる。甲冑埴輪は顔面表現が5世紀後半代に付加され、6世紀代の武人埴輪へと発達する。短甲(たんこう)、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)着用武人から挂甲衝角(しょうかく)付冑着用武人へと移る。長野県北西久保(きたにしくぼ)古墳の器財埴輪の盾形埴輪と人物埴輪の盾持ち人埴輪の共存は、その前者から後者へ移り変わる過渡期の様相を示している。人物埴輪は5世紀中ごろから巫女埴輪がみられるが、その後種類を増し、小形の半身像から5世紀末以降の大形全身像が出現してくる。6世紀中葉に女性の結髪に変化があり、撥形髷(ばちがたまげ)から分銅(ふんどう)形髷に移行してゆく。[橋本博文]
『小林行雄著『陶磁大系3 埴輪』(1974・平凡社) ▽村井雄編『古代史発掘7 埴輪と石の造形』(1974・講談社) ▽三木文雄編『日本の美術19 はにわ』(1967・至文堂) ▽伊達宗泰著『埴輪』(1978・保育社・カラーブックス) ▽猪熊兼勝著『日本の原始美術6 埴輪』(1979・講談社) ▽川西宏幸「円筒埴輪総論」(『考古学雑誌』第64巻第2・4号所収・1979・日本考古学会)』

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世界大百科事典内の埴輪の言及

【窯】より

…床面は水平に近く,なかには溝状の細長い煙道をもつものがある。古墳時代の埴輪焼成窯は関東から九州まで多数知られ,いずれも5世紀後半以降のもので,大阪府羽曳野市誉田(こんだ)白鳥窯跡群,茨城県勝田市(現,ひたちなか市)馬渡(まわたり)埴輪製作所跡などが著名である。いずれも須恵器窯の構造と同様で,丘陵斜面に幅1.5m,長さ6~7mの細長い溝をうがち,天井を架けた傾斜の緩い窖窯である。…

【古墳文化】より

… 土器としては,赤色素焼(すやき)の土師器(はじき)を作っていたが,これも弥生土器の技術の継承である。別に,古墳の各部に飾りたてるために,土製品の一種として,埴輪を創案したのであるが,造形的な表現力には進歩をみるとしても,実質は土師器と同じ程度の窯業技術によるものであった。また,芸術的にすぐれた人馬の像などの埴輪は,前期にはまだ姿をみせず,家屋や器物をかたどったものにとどまっていた。…

【殉死】より

…殉死に関連して,《日本書紀》垂仁紀の記事が注意される。垂仁天皇の28年に倭彦命を葬った際,その陵域に近習の人々を生きながらにして埋めたが,あまりに悲惨であったので,垂仁32年に皇后日葉酢媛が没したときには,人に代えて埴輪(はにわ)を立てたという。この記事は埴輪の起源説話であり,実際に人を生きながらに埋めたとは考えがたい。…

【殉葬】より

…しかし,最近長野県で殉葬した馬と推測される墓が発見されただけで,人の殉葬は遺跡の上ではまだ確認されていない。また〈垂仁紀〉や《古事記》崇神天皇条に見られる,埴輪の起源を殉葬にかえたものとする伝承は,埴輪の中でも人物埴輪の出現がもっとも遅く否定的に考えられている。エジプトのウシャブティや中国の(よう)などが,殉葬者に代わるものとして発明されたものか,別の理由によるかはまだほとんど議論されていない。…

【テラコッタ】より

…さらにイタリア半島でもローマ人に先立って古代文明を樹立したエトルリア人は,前6世紀に,ギリシアの青銅像や大理石像に代わって等身大の人物像をテラコッタで制作,陶芸における彼らの卓抜した技量を示した。 一方,東洋では日本の縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪,さらに中国の戦国時代から唐代にかけて制作された土製の(よう)もテラコッタである。日本の土偶や埴輪は〈手づくね〉であったが,とくに埴輪は粘土を輪状に積み重ねて形成する〈輪積法〉もしくは粘土を紐状にして積み上げる〈紐作り法〉であるのに対し,中国の俑はタナグラの小像と同様に型による成形で,唐代の加彩人物像,騎馬像などはテラコッタの最もすぐれた作例とされる。…

【野見宿禰】より

…以上は古代宮廷の年中行事で7月7日に行われた相撲節会(すまいのせちえ)の起源説話である。なお《日本書紀》は垂仁32年の皇后逝去にさいし,野見宿禰が従来の殉死の風を改め埴輪(はにわ)を立てることを献策し天皇より嘉賞されたという話を伝えている。野見宿禰は出雲より土部(はじべ)100人をよび,みずから宰領して埴輪を作ったが,これにより彼は土部臣(はじのおみ)の姓を名乗るようになったという。…

【土師氏】より

…埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。後には,軍事や外交方面でも活躍した。…

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