横曾根村(読み)よこぞねむら

日本歴史地名大系 「横曾根村」の解説

横曾根村
よこぞねむら

[現在地名]川口市川口五―六丁目・西川口にしかわぐち一―六丁目・並木なみき一―四丁目・並木元町なみきもとまち仲町なかちよう原町はらまち荒川町あらかわちよう南町みなみちよう一―二丁目・宮町みやちよう緑町みどりちよう飯原町いいはらちよう幸町さいわいちよう三丁目

飯塚いいづか村の北に位置し、村の南側に浮間うきま(現東京都北区)の南を東流する荒川(旧入間川)の水除堤がある(風土記稿)。当地は古くは荒川の乱流地帯で、川沿いの砂地・石地を開発して成立した村という。田園簿では田九七一石余・畑二六六石余。江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・改革組合取調書など)。元禄一〇年(一六九七)検地帳(遠山家文書)によると高一千九四石余、うち田七一八石余・畑三一三石余・屋敷六二石余で、反別田一一二町五反余・畑五一町余・屋敷六町九反余。


横曾根村
よこぞねむら

[現在地名]大垣市横曾根・横曾根町・昭和しようわ

東を南流する揖斐いび川と、南を東流する牧田まきだ川の合流点に位置し、大垣輪中の南端にある。多藝郡に属し、北は浅草西あさくさにし村・浅草東村。枝郷横曾根新田がある。大永年間(一五二一―二八)土豪安田右兵衛尉重春によって開発されたという。慶長一五年(一六一〇)高須たかす(現海津郡海津町)城主の徳永寿昌条書(吹原文書)には「栗笠・烏江・舟付・高田・曾根湊覚」の題が付されており、曾根は横曾根のこととされ、濃州三湊とともに近世初期に栄えた当地の湊に掟書が出されたことが知られる。慶長郷帳に村名がみえ、村高三〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。


横曾根村
よこぞねむら

[現在地名]水海道市豊岡とよおか

鬼怒きぬ川西岸の横曾根台地に所在。西は報恩寺ほうおんじ村。中世には北下総地方の浄土真宗・浄土宗の中心地となり、親鸞の有力門弟二四人を正慶元年(一三三二)に記した二十四輩牒(大網願入寺文書)に「性信御房下(ママ)国豊田庄横曾禰」、また親鸞上人門侶交名牒に「性信 ヨコソネ」とあり、報恩寺開基性信を中心とする横曾根門徒が成立していたことがわかる。なお「二十四輩順拝図会」によれば建保年間(一二一三―一九)に性信は当地に竜宮りゆうぐう寺を開いている。


横曾根村
よこぞねむら

[現在地名]上越市横曾根

中真砂なかまなご村の西、じゆう川右岸に位置する。「武蔵七党系図」に、仁治二年(一二四一)に没した従五位下左衛門尉阿佐美実高が越後国の横曾禰保などを領し、子孫に宛行ったとある。この横曾禰保は当地にあったものであろう。下って応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)によると、居多こた神社は横曾禰に一町の社領を有している。


横曾根村
よこぞねむら

[現在地名]岩室村横曾根・白鳥しろとり

北流する西にし川と川に挟まれた低地にあり、南西は長島ながしま村、東は舟越ふなこし村。慶安三年(一六五〇)頃までに開発され、元禄郷帳舟越村枝郷として村名がみえ、高八七石五斗余。また慶長一九年―万治元年(一六一四―五八)の間と推定される本願寺宣如懇志請取状(浄専寺蔵)によれば、舟越村・石瀬いしぜ村などの講中とともに「横根村」の講中も京都東本願寺へ懇志銀子二枚を上納しており、「横根」は当村のこととも推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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