横浜村
よこはまむら
[現在地名]中区海岸通一―五丁目・元浜町一―四丁目・北仲通一―六丁目・本町一―六丁目・南仲通一―五丁目・弁天通一―六丁目・日本大通・山下町・元町一―五丁目・山手町
南東の北方村からの丘陵先が細長く突出して形成する洲にあり、北東は海に面し、西北端に洲乾湊、対岸に野毛浦があり、入海を挟んで西南は吉田新田村に対し、南は中村に接する。幕末には吉田新田村との間の海が埋立てられて太田屋新田となる。
「嘉吉弐年辛酉卯月廿六日」付の石河宝金剛院宛の市河季氏・比留間範数連署寄進状(県史三)に「武州久良郡横浜村薬師堂免田畠等事」とある。「横浜沿革誌」によれば文禄四年(一五九五)石河郷から中村・堀之内村(現南区)とともに分村したという。
近世は幕府直轄領から元禄一〇年(一六九七)旗本荒川領。水田は少なく、陸田が多く、天水で耕植し、海岸に一六町余を新墾して文化九年(一八一二)に検地を受けた(風土記稿)。漁業・製塩業・廻船業にたずさわる者もいたという(横浜沿革誌)。田園簿には舟役永六〇〇文を記す。天保一二年(一八四一)一二月の名主小前魚渡世訴訟内済吟味下願(県史八)によれば、農間には散浦で漁猟を行い、端魚は神奈川宿(現神奈川区)の仲買与平治に売りさばき、大漁の場合は江戸日本橋(現東京都中央区)の問屋に積送り、漁師五名がいた。江戸問屋が五名の名前を張出したことから端魚買付けを与平治に拒否され、五名が名主に不信を抱く事件となっている。
嘉永七年(一八五四)一月のペリー再来日により、幕府は同月二八日に横浜で応接することを決定し、村北東端の字駒形に応接所を建てた(大日本維新史料)。二月一〇日にペリー一行は上陸、以後四回の交渉を重ね、三月三日、日米和親条約(神奈川条約)が締結された。
横浜村
よこはまむら
[現在地名]横浜町 横浜など
下北半島基部の陸奥湾東岸に位置する。北は境川で中野沢村(現むつ市)、南は有戸村(現野辺地町)、東は白糠村(現下北郡東通村)、泊村・出戸村(現六ヶ所村)に接する。
正平三年(一三四八)南部信政の女が北部王良尹王に嫁した時、引出物として「横平・鶏崎・百滅騎等十二ケ村」を与え、康正三年(一四五七)の蠣崎の乱後、地名を横浜・鶏沢・百目木に改めたという伝承がある。蠣崎の乱について述べた「東北太平記」の口絵、康正三年下北図は信憑性に乏しいが、この図に現在の横浜町と思われる地の東方山麓近くにヨコヒラ(横平)、その西の海岸近くに砦の印があり、横浜カケユ・横浜杢、その北の砦に中山善助の名が出ている。また伝承に元亀三年(一五七二)関東侍相川掃部・西野内匠が津軽で乱を起こし、南部高信に討取られたが、この掃部の兄杉生大蔵は「横浜に浪人仕居候処に、是又一揆を起し候由」(聞老遺事)と横浜に乱を起こし郷民数百を募り三戸(現三戸郡三戸町)を襲おうとしたが、八戸(現八戸市)の南部政栄に攻められ、松前に逃れた(横浜町誌)と書かれているが、確証はない。
「岩手県史」によれば、数本の七戸系図を載せているが、南部光行の子に七戸氏・久慈氏の祖である七戸太郎朝清を出し、七戸氏から横浜氏を出している。数本の七戸系図と庶流横浜系図に異同はあるが、一本に朝清の子孫慶治は横浜兵庫介を称し(別系あり)、慶治の弟慶清の子孫七戸右近政安の三男慶則を「横浜左衛門尉、横浜某養子、横浜氏の祖」とある。また一本別系、八戸南部の政光に系を引く七戸系図もあり、これら諸系は混淆して正確を期しがたい。
横浜村
よこはまむら
[現在地名]高知市横浜
瀬戸村の北にある。北は鷲尾山・宇津野山の稜線を境に神田村・潮江村に接し、西は内ノ谷村(現吾川郡春野町)。村の北東部宇津野峠を越えて、城下と南の長浜村を結ぶ往還が通る。村域は大半が山地で、集落は海岸近くに点在する。吾川郡に属した。「土佐州郡志」は「東西四十町許南北十五町許、西孕之海際有宰臣別荘四処、皆蔵楼船、人家数椽、其土多石」と記し、小村として秋篠之里・中之谷・西之谷・鷲尾・瀬戸を記す。
横浜村
よこはまむら
[現在地名]夜須町坪井
夜須川河口西岸の海岸砂丘上に形成された土佐街道(東街道)沿いの街村。夜須川の東南対岸は手結村、北に夜須村、西に岸本浦(現香我美町)がある。現夜須町の街区をなす部分で、天正一六年(一五八八)の夜須庄地検帳に記される横浜村が江戸時代には夜須村の枝村として存続した。「土佐州郡志」は横浜としてその範囲を「自岸本到手結、其行程十四町、皆平沙也」と記す。交通の要衝にあたり、北方の農業地域や、港を中心とする手結浦とは異なる地域色を有してはいるが、村域がきわめて狭いため、行政上ほとんど夜須村の一部として扱われた。
横浜村
よこはまむら
[現在地名]津幡町横浜
津幡川左岸、加賀爪村の南に位置し、集落は北陸街道に沿う。北中条村の枝郷という(仮名付帳)。正保郷帳の高二四一石余、田方九町八反余・畑方六町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九七石、免五ツ四歩、小物成は草野役五匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数九(高免付給人帳)。文化八年(一八一一)の産物として麻苧二貫ほど・布一三疋ほど・
七五〇ほど・藍二貫五〇〇目ほど・菜種八石三斗ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)。天保年間(一八三〇―四四)の高三二二石、家数三三(うち頭振一四)・人数一八三(「河北郡村々調理書上帳」林文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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