日本歴史地名大系 「横浜村」の解説
横浜村
よこはまむら
南東の
「嘉吉弐年
近世は幕府直轄領から元禄一〇年(一六九七)旗本荒川領。水田は少なく、陸田が多く、天水で耕植し、海岸に一六町余を新墾して文化九年(一八一二)に検地を受けた(風土記稿)。漁業・製塩業・廻船業にたずさわる者もいたという(横浜沿革誌)。田園簿には舟役永六〇〇文を記す。天保一二年(一八四一)一二月の名主小前魚渡世訴訟内済吟味下願(県史八)によれば、農間には散浦で漁猟を行い、端魚は神奈川宿(現神奈川区)の仲買与平治に売りさばき、大漁の場合は江戸
嘉永七年(一八五四)一月のペリー再来日により、幕府は同月二八日に横浜で応接することを決定し、村北東端の字
横浜村
よこはまむら
下北半島基部の陸奥湾東岸に位置する。北は
正平三年(一三四八)南部信政の女が北部王良尹王に嫁した時、引出物として「横平・鶏崎・百滅騎等十二ケ村」を与え、康正三年(一四五七)の蠣崎の乱後、地名を横浜・
「岩手県史」によれば、数本の七戸系図を載せているが、南部光行の子に七戸氏・久慈氏の祖である七戸太郎朝清を出し、七戸氏から横浜氏を出している。数本の七戸系図と庶流横浜系図に異同はあるが、一本に朝清の子孫慶治は横浜兵庫介を称し(別系あり)、慶治の弟慶清の子孫七戸右近政安の三男慶則を「横浜左衛門尉、横浜某養子、横浜氏の祖」とある。また一本別系、八戸南部の政光に系を引く七戸系図もあり、これら諸系は混淆して正確を期しがたい。
横浜村
よこはまむら
横浜村
よこはまむら
横浜村
よこはまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報