日米修好通商条約(読み)ニチベイシュウコウツウショウジョウヤク

デジタル大辞泉 「日米修好通商条約」の意味・読み・例文・類語

にちべい‐しゅうこうつうしょうじょうやく〔‐シウカウツウシヤウデウヤク〕【日米修好通商条約】

安政5年(1858)江戸幕府と米国との間で結ばれた通商条約日米和親条約で既に開かれていた箱館のほか、神奈川長崎新潟兵庫の開港(ただし開港となっていた下田は鎖港となる)、公使の交換、江戸・大坂の開市、開港場外国人居留地の設定、自由貿易の原則を認めたが、領事裁判権を規定し、関税自主権を否定するなど、日本側に不利な不平等条約であった。その後、オランダロシアイギリスフランスとも同等の条約を調印。→安政の仮条約

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精選版 日本国語大辞典 「日米修好通商条約」の意味・読み・例文・類語

にちべい‐しゅうこうつうしょうじょうやく‥シウカウツウシャウデウヤク【日米修好通商条約】

  1. 安政五年(一八五八)六月、神奈川で締結された日米間の通商条約。米総領事ハリス下田奉行井上清直、目付岩瀬忠震(ただなり)との間で調印。下田・箱館・神奈川などの開港、江戸・大坂の開市、下田・箱館の外国人居留地の設定、治外法権、自由貿易を認め、関税自主権を否定するなど、日本側には不利な不平等条約であった。明治二七年(一八九四)、日米通商航海条約にかわった。日本は同様の条約を、蘭・露・英・仏とも結び、安政五か国条約と総称される。

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百科事典マイペディア 「日米修好通商条約」の意味・わかりやすい解説

日米修好通商条約【にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく】

1858年江戸幕府が米国総領事ハリスとの間に調印した14ヵ条の条約。自由貿易,神奈川・長崎・箱(函)館・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市,領事裁判権,片務的関税協定,居留地を設けることなどを内容とした不平等条約。同年ほぼ同じ内容の条約を蘭・露・英・仏と結び,これらを合わせて安政仮条約安政五ヵ国条約と通称。→安政の大獄条約勅許問題日米通商航海条約
→関連項目井伊直弼岩倉具視岩瀬忠震大原重徳開国(日本史)外国奉行神奈川神奈川条約公武合体孝明天皇将軍継嗣問題尊王攘夷運動徳川家定長野主膳中浜万次郎幕末遣外使節ヒュースケン堀田正睦明治維新横浜港

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日米修好通商条約」の意味・わかりやすい解説

日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

幕末期、日米間に締結されたいわゆる安政(あんせい)五か国条約の最初の一つ。日本側全権は井上清直(きよなお)(下田奉行(しもだぶぎょう))、岩瀬忠震(ただなり)(目付)、アメリカ側全権はT・ハリス(初代駐日総領事)、1858年(安政5)6月19日(新暦7月29日)神奈川沖の米艦ポーハタン号上で調印、全14条、付属貿易章程七則、2年後ワシントンで批准書交換。公使(首都)・領事(開港場)の駐在、両国民の自由貿易、神奈川・長崎・箱館(はこだて)・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、内外貨幣の同種同量通用、関税率の協定、外人居留地の設定と遊歩区域、領事裁判権、アメリカ人の信教の自由などが規定された。

 この条約は、日本の欧米列強への対外従属的な開国開港、すなわち、領事裁判権(居留民の事実上の治外法権)、関税自主権の喪失、日米和親条約以来有効とされた片務的な最恵国条款という不平等な条件下に国交・通商関係を強いられる画期となり、同年のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとのほぼ同様な通商条約の調印の発端となった。しかもこの条約は、アロー戦争で清(しん)国を破ったイギリス・フランスの大艦隊がそのまま日本に来航して通商条約の締結を迫る、とのハリスからの情報に大老井伊直弼(なおすけ)が恐れ、鎖国主義の孝明(こうめい)天皇の勅許を待たずに調印に踏み切ったもので、2年後の桜田門外の変をはじめ尊王攘夷(じょうい)運動の台頭と幕末維新の激しい政争の展開の契機ともなった。1899年(明治32)日米通商航海条約の発効まで存続した。

芝原拓自

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改訂新版 世界大百科事典 「日米修好通商条約」の意味・わかりやすい解説

日米修好通商条約 (にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)

1858年7月29日(安政5年6月19日),日本とアメリカが結んだ条約。条約14ヵ条と貿易章程7則から成る。調印場所は神奈川(現,横浜市)。調印したのは,日本側は下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震(ただなり),アメリカ側は総領事ハリス。日本が外国と結んだ最初の通商条約である。条約締結をめぐる折衝はハリスが下田に着任した56年8月からはじまったが,条約個条の実質審議は58年1月から2月にかけて江戸で行われた。議了の後,幕府は老中堀田正睦(まさよし)を上京させて条約調印の勅許を得ようとしたが失敗し,7月の調印は勅許を得ないで行った(条約勅許問題)。条約では59年7月4日からの神奈川・長崎・箱館の開港のほか,新潟・兵庫の開港,江戸・大坂の開市の期日を定めた。貿易形態は自由貿易。また輸入関税率の協定制度,領事裁判権,一方的で無条件の最恵国待遇など不平等条約の根幹をなす条項が盛りこまれた。幕府は60年(万延1),外国奉行新見正興らをアメリカに派遣し,同年5月22日(万延1年4月3日),ワシントンで国務長官カスとの間で条約批准書を交換した。この条約は94年11月22日,不平等条項を破棄した日米通商航海条約が調印され,99年7月17日の発効まで存続した。
安政五ヵ国条約
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日米修好通商条約」の解説

日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

1858年7月29日(安政5年6月19日)日本が江戸湾小柴沖の米艦上で米国総領事ハリスと締結した条約。幕府が自由貿易を認めて本格的な開国にふみきった最初の条約。外交代表の首都駐在と領事の開港場駐在,箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港,江戸・大坂の開市,自由貿易,アヘン輸入禁止,内外貨幣の同種同量の通用,アメリカ人の宗教の自由などを規定した。片務的な領事裁判権,関税自主権の否定につながる協定税率を認め,和親条約の片務的最恵国条款を引き継いだ不平等条約。付属として貿易章程を定める。幕府はひきつづき類似の条約を蘭・露・英・仏とも結び,これらは一括して安政五カ国条約とよばれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日米修好通商条約」の解説

日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

1858(安政5)年,江戸幕府がアメリカとの間に結んだ通商条約。安政の五カ国条約の最初
内容は,外交代表・領事の交換,神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と,開港場における外国人の居留・借地・建物購入の許可,江戸・大坂の開市,自由貿易の原則確立,関税協定,通貨の規定,領事裁判権などを含む14条からなる。関税自主権がなく,領事裁判権を与え,最恵国条款を認めるなどの不平等条約であった。幕府はついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ。これにより貿易が開始されたが,国内経済が混乱し,尊王攘夷運動が激化した。

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防府市歴史用語集 「日米修好通商条約」の解説

日米修好通商条約

1858年(安政5年)に日本とアメリカとの間で結ばれた条約で、国内の数ヶ所の港を開くことや、外国人の住む地域を定めることが決められました。一方で、外国人の犯罪を日本の法律で裁けない、関税を日本側だけで決められないといった、日本側に不利な項目もありました。大老の井伊直弼[いいなおすけ]は条約を結ぶ際に朝廷の許しを得なかったので朝廷と幕府の対立を招き、幕府の対応を非難する人々が現れました。

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旺文社世界史事典 三訂版 「日米修好通商条約」の解説

日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

1858年7月29日に日本がアメリカ総領事ハリスと締結した条約
幕府は自由貿易を認めて本格的な開港に踏みきり,箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事の駐在,自由貿易,信教の自由などを約束した。また,領事裁判権を認め,関税自主権を喪失して片務的最恵国待遇を与えるなどの不平等条約でもあった。続いて英・蘭・露・仏とも同様の条約を締結し,これらは「安政の五か国条約」といわれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日米修好通商条約」の意味・わかりやすい解説

日米修好通商条約
にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

安政五ヵ国条約」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の日米修好通商条約の言及

【安政金銀】より

…江戸時代安政年間(1854‐60)発行の金銀貨幣。1858年(安政5),日米修好通商条約が締結され,そのなかで外国貨幣の同種同量での通用が承認された。幕府は翌6年に貨幣の改鋳を実施し,同年6月に安政小判・同一分金・同二朱銀を,ついで8月に安政一分銀を,さらに12月に安政丁銀・同小玉銀(小粒銀・豆板銀)を発行した。…

【開国】より

…以来,幕府は,イギリス,ロシア,オランダとも和親条約を結び,外国船の寄港と補給のために下田,箱館,長崎などを開港したが,なお自由な通商貿易を認めてはいなかった。しかし,日米和親条約にもとづいて56年(安政3)に来日した日本駐在総領事T.ハリスは,幕府との執拗な交渉の結果,58年7月29日(安政5年6月19日),あらためて日米修好通商条約を締結した。この条約は,天皇の勅許を待つということでその調印をひきのばしていた幕府が,第2次アヘン戦争(アロー戦争)で中国(清朝)を屈服させたイギリス,フランスの大艦隊がそのまま日本に転進して新条約の締結をせまるという情報をハリスからうけて,勅許を待たずにあわてて調印にふみきったものであり,ひきつづき幕府は同年中に,オランダ,ロシア,イギリス,フランスとも同様な修好通商条約の締結を余儀なくされた。…

【関税自主権】より

…たとえば中国では,1856‐58年の第2次アヘン戦争の結果,清国は天津条約を押しつけられ,輸出入とも従価5%基準従量税という関税率を強制された(関税問題)。日本も1858年(安政5)の日米修好通商条約により治外法権,協定税率,最恵国条項を主要内容とする不平等条約を強制され,さらに66年(慶応2)の改税約書により天津条約とほぼ同様の輸出入一律従価5%の従量税率が協定されたのである。一律5%という低率関税,片務的協定関税であったことに加え,支払通貨の基準が銀におかれたため,銀価格の低落に伴い税率は5%以下になり,この改税約書のために日本は大損害をこうむった。…

【航米日録】より

…日米修好通商条約批准使節新見正興の従者玉虫左太夫誼茂(やすしげ)が,1860年(万延1)のアメリカ旅行から帰って書き下ろした記録。全8巻。…

【条約勅許問題】より

…幕府は1854年の日米和親条約締結に際して朝廷にアメリカ国書を奏聞したが,調印については事後報告を行うにとどまった。しかし,日米修好通商条約の調印問題には国内の反対派を押さえるために勅許を得るべく,57年幕吏を上洛させた。朝廷の調印反対,攘夷の意は強く,このため外交責任者の老中堀田正睦(まさよし)は翌年2月みずから上洛し,国際情勢の変化を説き勅許を奏請したが,朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚を下した。…

【幕末遣外使節】より

…江戸幕府が開港以降に,外交交渉のために外国へ派遣した使節。(1)1860年(万延1),日米修好通商条約本書の批准交換のためアメリカへ派遣。正使は外国奉行新見正興,副使は同村垣範正,監察は目付小栗忠順(ただまさ)で,随員のほか佐賀,仙台,長州,土佐,熊本の諸藩士など全体で80名余。…

【戊午の密勅】より

…1858年(安政5)8月8日付で幕府と水戸藩へ出された勅諚。勅許と諸藩との衆議を経ないまま独断で日米修好通商条約に調印した幕府に対して,孝明天皇は譲位を表明し,これをうけた朝議は薩摩,水戸藩士の画策もあって,幕府へ調印を抗議し,諸藩と衆議を尽くすべしとの勅諚を下すことを決した。勅諚は10日に幕府へ下され,また8日には内密に水戸藩へも下された。…

※「日米修好通商条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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