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幕末期、日米間に締結されたいわゆる安政(あんせい)五か国条約の最初の一つ。日本側全権は井上清直(きよなお)(下田奉行(しもだぶぎょう))、岩瀬忠震(ただなり)(目付)、アメリカ側全権はT・ハリス(初代駐日総領事)、1858年(安政5)6月19日(新暦7月29日)神奈川沖の米艦ポーハタン号上で調印、全14条、付属貿易章程七則、2年後ワシントンで批准書交換。公使(首都)・領事(開港場)の駐在、両国民の自由貿易、神奈川・長崎・箱館(はこだて)・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、内外貨幣の同種同量通用、関税率の協定、外人居留地の設定と遊歩区域、領事裁判権、アメリカ人の信教の自由などが規定された。
この条約は、日本の欧米列強への対外従属的な開国開港、すなわち、領事裁判権(居留民の事実上の治外法権)、関税自主権の喪失、日米和親条約以来有効とされた片務的な最恵国条款という不平等な条件下に国交・通商関係を強いられる画期となり、同年のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとのほぼ同様な通商条約の調印の発端となった。しかもこの条約は、アロー戦争で清(しん)国を破ったイギリス・フランスの大艦隊がそのまま日本に来航して通商条約の締結を迫る、とのハリスからの情報に大老井伊直弼(なおすけ)が恐れ、鎖国主義の孝明(こうめい)天皇の勅許を待たずに調印に踏み切ったもので、2年後の桜田門外の変をはじめ尊王攘夷(じょうい)運動の台頭と幕末維新の激しい政争の展開の契機ともなった。1899年(明治32)日米通商航海条約の発効まで存続した。
[芝原拓自]
1858年7月29日(安政5年6月19日),日本とアメリカが結んだ条約。条約14ヵ条と貿易章程7則から成る。調印場所は神奈川(現,横浜市)。調印したのは,日本側は下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震(ただなり),アメリカ側は総領事ハリス。日本が外国と結んだ最初の通商条約である。条約締結をめぐる折衝はハリスが下田に着任した56年8月からはじまったが,条約個条の実質審議は58年1月から2月にかけて江戸で行われた。議了の後,幕府は老中堀田正睦(まさよし)を上京させて条約調印の勅許を得ようとしたが失敗し,7月の調印は勅許を得ないで行った(条約勅許問題)。条約では59年7月4日からの神奈川・長崎・箱館の開港のほか,新潟・兵庫の開港,江戸・大坂の開市の期日を定めた。貿易形態は自由貿易。また輸入関税率の協定制度,領事裁判権,一方的で無条件の最恵国待遇など不平等条約の根幹をなす条項が盛りこまれた。幕府は60年(万延1),外国奉行新見正興らをアメリカに派遣し,同年5月22日(万延1年4月3日),ワシントンで国務長官カスとの間で条約批准書を交換した。この条約は94年11月22日,不平等条項を破棄した日米通商航海条約が調印され,99年7月17日の発効まで存続した。
→安政五ヵ国条約
執筆者:小野 正雄
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1858年7月29日(安政5年6月19日)日本が江戸湾小柴沖の米艦上で米国総領事ハリスと締結した条約。幕府が自由貿易を認めて本格的な開国にふみきった最初の条約。外交代表の首都駐在と領事の開港場駐在,箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港,江戸・大坂の開市,自由貿易,アヘン輸入禁止,内外貨幣の同種同量の通用,アメリカ人の宗教の自由などを規定した。片務的な領事裁判権,関税自主権の否定につながる協定税率を認め,和親条約の片務的最恵国条款を引き継いだ不平等条約。付属として貿易章程を定める。幕府はひきつづき類似の条約を蘭・露・英・仏とも結び,これらは一括して安政五カ国条約とよばれる。
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…江戸時代安政年間(1854‐60)発行の金銀貨幣。1858年(安政5),日米修好通商条約が締結され,そのなかで外国貨幣の同種同量での通用が承認された。幕府は翌6年に貨幣の改鋳を実施し,同年6月に安政小判・同一分金・同二朱銀を,ついで8月に安政一分銀を,さらに12月に安政丁銀・同小玉銀(小粒銀・豆板銀)を発行した。…
…以来,幕府は,イギリス,ロシア,オランダとも和親条約を結び,外国船の寄港と補給のために下田,箱館,長崎などを開港したが,なお自由な通商貿易を認めてはいなかった。しかし,日米和親条約にもとづいて56年(安政3)に来日した日本駐在総領事T.ハリスは,幕府との執拗な交渉の結果,58年7月29日(安政5年6月19日),あらためて日米修好通商条約を締結した。この条約は,天皇の勅許を待つということでその調印をひきのばしていた幕府が,第2次アヘン戦争(アロー戦争)で中国(清朝)を屈服させたイギリス,フランスの大艦隊がそのまま日本に転進して新条約の締結をせまるという情報をハリスからうけて,勅許を待たずにあわてて調印にふみきったものであり,ひきつづき幕府は同年中に,オランダ,ロシア,イギリス,フランスとも同様な修好通商条約の締結を余儀なくされた。…
…たとえば中国では,1856‐58年の第2次アヘン戦争の結果,清国は天津条約を押しつけられ,輸出入とも従価5%基準従量税という関税率を強制された(関税問題)。日本も1858年(安政5)の日米修好通商条約により治外法権,協定税率,最恵国条項を主要内容とする不平等条約を強制され,さらに66年(慶応2)の改税約書により天津条約とほぼ同様の輸出入一律従価5%の従量税率が協定されたのである。一律5%という低率関税,片務的協定関税であったことに加え,支払通貨の基準が銀におかれたため,銀価格の低落に伴い税率は5%以下になり,この改税約書のために日本は大損害をこうむった。…
…日米修好通商条約批准使節新見正興の従者玉虫左太夫誼茂(やすしげ)が,1860年(万延1)のアメリカ旅行から帰って書き下ろした記録。全8巻。…
…幕府は1854年の日米和親条約締結に際して朝廷にアメリカ国書を奏聞したが,調印については事後報告を行うにとどまった。しかし,日米修好通商条約の調印問題には国内の反対派を押さえるために勅許を得るべく,57年幕吏を上洛させた。朝廷の調印反対,攘夷の意は強く,このため外交責任者の老中堀田正睦(まさよし)は翌年2月みずから上洛し,国際情勢の変化を説き勅許を奏請したが,朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚を下した。…
…江戸幕府が開港以降に,外交交渉のために外国へ派遣した使節。(1)1860年(万延1),日米修好通商条約本書の批准交換のためアメリカへ派遣。正使は外国奉行新見正興,副使は同村垣範正,監察は目付小栗忠順(ただまさ)で,随員のほか佐賀,仙台,長州,土佐,熊本の諸藩士など全体で80名余。…
…1858年(安政5)8月8日付で幕府と水戸藩へ出された勅諚。勅許と諸藩との衆議を経ないまま独断で日米修好通商条約に調印した幕府に対して,孝明天皇は譲位を表明し,これをうけた朝議は薩摩,水戸藩士の画策もあって,幕府へ調印を抗議し,諸藩と衆議を尽くすべしとの勅諚を下すことを決した。勅諚は10日に幕府へ下され,また8日には内密に水戸藩へも下された。…
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