日本の城がわかる事典 「檜原城」の解説 ひのはらじょう【檜原城】 東京都西多摩郡檜原村にあった山城(やまじろ)。標高449m、比高187mの山上に築かれていた。この地域を本拠としていた平山氏の居城とされているが、築城時期は不明である。城の下を当時、武蔵と甲斐を結ぶ唯一の街道が通っており、この街道を押さえる城でもあった。平山氏は、戦国時代後期には北条氏に臣従した。滝山城(八王子市)の北条氏照は甲相駿三国同盟が崩れた後の1568年(永禄11)に、檜原城主の平山氏重に対し、甲斐の武田氏の侵攻に備えるよう命じている。しかし、翌1569年(永禄12)、武田信玄の本隊2万はこの街道を使わず、碓氷峠を越えて上野国を通過し武蔵国中央部を南下して小田原を目指した。一方、小山田信茂率いる別働隊は小仏峠を越えて侵入して氏照を破り、滝山城に押し寄せた。このため、檜原城は戦火にさらされることはなかった。1590年(天正18)の小田原の役の際も氏重が檜原城を守ったが、八王子城(八王子市)落城後に同城も落城。氏重は自害した。城跡には曲輪(くるわ)、堀切、竪堀、土橋などの遺構が残っている。JR五日市線武蔵五日市駅からバス。檜原村役場近くの吉祥寺の裏手に城山への登山道がある。山頂までは急傾斜の登山道を約15分程度登る。 ひばらじょう【檜原城】 福島県耶麻郡北塩原村にあった戦国時代の城郭。磐梯朝日国立公園内の檜原湖北岸の小谷山(標高954m、比高120m)に築かれた、本丸、二の丸、袖郭で構成された連郭式の山城(やまじろ)。山形県米沢市を本拠としていた伊達政宗(まさむね)は、檜原峠を越え蘆名氏の臣下の穴沢氏の領地だった裏磐梯を攻めて檜原湖一帯を占領して伊達領としたが、蘆名氏の本拠の会津盆地への侵入拠点として檜原湖岸に築いたのが檜原城である。政宗は檜原城に家臣の後藤孫兵衛信康を城代として入城させ、蘆名方の柏木城(同村大塩)への押さえとするとともに、仙道口からの会津侵攻を試み、1589年(天正17)に、摺上原の戦いで勝利して黒川城(のちの若松城、同県会津若松市)を占領し、蘆名氏を滅亡させた。この摺上原の戦いの際、政宗の部将の原田宗時が檜原城から出撃し、蘆名軍の後方攪乱を行い、伊達勢の勝利に貢献している。政宗が会津を制圧すると、檜原城の役割は終わり廃城となった。現在、城跡には空堀跡や堀切跡が残っている。JR磐越西線猪苗代駅からバス。◇小谷山城とも呼ばれる。また、「桧原城」とも記述される。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報