日本歴史地名大系 「檜牧庄」の解説
檜牧庄
ひのまきのしよう
肥伊牧、以接民居損田園也」とあり、開発がすすみ、肥伊牧が停止されたことがうかがえるが、平安遷都以後軍事・政治上の意味を失ったことにもよるのであろう。この開発は在地の豪族県氏によるものであり、いずれ檜牧庄となる。所在は荘号等からみると現大字檜牧に比定される。
相伝次第等は、建久九年(一一九八)の七条院藤原殖子庁下文案(東寺百合文書)に「大和国檜牧庄官等 可任権律師長厳寄文為御領事 在管宇陀郡 四至東限焼峯 西限比曾口 南限塵峯 北限下津尾 右、今年八月日彼長厳寄文、件庄者、県清理開発私領也、清理譲県仲子、仲子処分子息僧快秀、快秀処分舎弟平孝通、孝通譲加賀前司
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報