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後宇多天皇 ごうだてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後宇多天皇
ごうだてんのう

[生]文永4(1267).12.1. 京都
[没]正中1(1324).6.25. 京都
第 91代の天皇 (在位 1274~87) 。名は世仁。亀山天皇の第2皇子。母は左大臣藤原実雄の娘京極院藤原佶子。文永 11 (74) 年8歳で即位。弘安 10 (87) 年皇太子煕仁親王 (→伏見天皇 ) に位を譲った。

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デジタル大辞泉の解説

ごうだ‐てんのう〔‐テンワウ〕【後宇多天皇】

[1267~1324]第91代天皇。在位、1274~1287。亀山天皇の第2皇子。名は世仁(よひと)。大覚寺統の天皇で、譲位後に持明院統からの天皇が続いたので幕府に抗議し、子の後二条天皇の即位を実現。学を好み、内外の典籍を学び、仏道に帰依した。日記に「後宇多天皇宸記」。

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百科事典マイペディアの解説

後宇多天皇【ごうだてんのう】

亀山天皇第2皇子。1274年即位。この即位は後深草(ごふかくさ)天皇系の持明院(じみょういん)統,亀山天皇系の大覚寺(だいかくじ)統の対立の端緒となる。1287年伏見天皇に譲位したが,続けて持明院統後伏見天皇が即位したため,幕府に働きかけて皇子の後二条天皇を即位させて院政を行い,後醍醐天皇の即位当初も院政を行った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後宇多天皇 ごうだてんのう

1267-1324 鎌倉時代,第91代天皇。在位1274-87。
文永4年12月1日生まれ。亀山(かめやま)天皇の第2皇子。母は藤原佶子(きつし)(京極院)。父の譲位をうけて8歳で即位。大覚寺統。文永・弘安(こうあん)の両役がおき,2度元(げん)(中国)の来襲をうける。21歳で持明院統の伏見天皇に譲位。のち後二条・後醍醐(ごだいご)天皇の代に院政をしくが,元亨(げんこう)元年院政を停止した。元亨4年6月25日死去。58歳。墓所は蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は世仁(よひと)。法名は金剛性。別名に大覚寺殿。著作に「後宇多院御記」など。
【格言など】樛(つが)の木のいやつぎつぎに伝ふべき天(あめ)の位は神のまにまに(「嘉元仙洞御百首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

後宇多天皇

没年:正中1.6.25(1324.7.16)
生年:文永4.12.1(1267.12.17)
鎌倉中期の天皇。先代亀山天皇と皇后藤原佶子(京極院)の子。後嵯峨天皇の子には先々代後深草天皇と亀山天皇があり,後嵯峨は弟の亀山を愛した。そのため後深草から亀山への譲位が行われ,さらに亀山の皇太子には後深草の皇子をさしおいて,亀山の皇子世仁が立てられた。文永9(1272)年に後嵯峨が没すると亀山天皇が朝廷の実権を掌握し,親政を開始。2年後に世仁が即位し,後宇多天皇となった。亀山は上皇となって院政を開始するが,後深草上皇はこれに強く反発。ここに後深草系(京都持明院と関係が深かったので持明院統と呼ばれる)と亀山・後宇多系(大覚寺統)の対立を生じた。後深草上皇は,鎌倉幕府に働きかけて,建治1(1275)年に皇子の煕仁親王を皇太子とすることに成功。弘安10(1287)年,後宇多は煕仁親王(伏見天皇)に譲位し,こののち皇統はしばらく持明院統に移る。やがて後宇多の皇子邦治が正安3(1301)年に即位して94代後二条天皇になり,後宇多が院政を行った。このときも皇太子の選定をめぐって持明院統と大覚寺統とは激しく対立し,結局持明院統の富仁親王に定まった。 対立は大覚寺統の内部にも生じた。後宇多が皇子尊治親王を推したのに対し,亀山は自らの皇子恒明親王を嫡流に擬したのである。嘉元3(1305)年に亀山が,徳治3(1308)年に後二条が没すると,富仁親王が花園天皇となり,尊治親王が皇太子となった。後宇多は父亀山の意向を無視したのである。後宇多は尊治親王にも注文をつけた。尊治はあくまでも一代限りであって,後二条の子邦良が成長したらすべてを邦良に譲るように求めたのである。文保2(1318)年,後宇多は持明院統の伏見上皇と談合し,尊治親王の即位,邦良の皇太子立坊を実現させた。尊治は96代後醍醐天皇となり,後宇多は再び院政を行う。しかし後醍醐は自ら政治を行おうとし,父子は対立するに至る。元亨1(1321)年,ついに後宇多は政務を後醍醐にわたし,天皇親政が実現した。院政時の御所とするなど縁の深かった大覚寺で没す。好学の天皇として有名である。陵所は京都の蓮華峰寺陵。

(本郷和人)

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世界大百科事典 第2版の解説

ごうだてんのう【後宇多天皇】

1267‐1324(文永4‐正中1)
第91代に数えられる天皇。在位1274‐87年。亀山天皇の第2皇子。母は左大臣洞院実雄の娘京極院佶子。名は世仁。大覚寺殿と称された。在位中は父亀山上皇院政時代で,その間と退位後も学問に努めた。1301年(正安3)皇子の後二条天皇が即位すると院政をしき,熱心に政務をみた。07年(徳治2)寵妃姈子内親王が没すると,それをいたんで急に出家し,大覚寺を住いとした。法名は金剛性。晩年は大覚寺統と持明院統の皇統争いに悩まされた。

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大辞林 第三版の解説

ごうだてんのう【後宇多天皇】

1267~1324) 第九一代天皇(在位1274~1287)。名は世仁。亀山天皇の皇子。日記「後宇多天皇宸記」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後宇多天皇
ごうだてんのう
(1267―1324)

鎌倉時代後期の天皇(在位1274~87)。名は世仁(よひと)。亀山(かめやま)天皇の第2皇子。文永(ぶんえい)4年12月1日生まれ。母は左大臣藤原実雄(さねお)の娘京極院佶子(きょうごくいんきっし)。退位後、伏見(ふしみ)天皇、後伏見天皇と引き続き持明院(じみょういん)統が皇位を継承したのに抗議し、両統迭立(てつりつ)を行わせ、1301年(正安3)第1皇子(後二条(ごにじょう)天皇)を即位させ、自らはその間7年院政を行って朝政の実権を握った。18年(文保2)第2皇子(後醍醐(ごだいご)天皇)が即位するとふたたび院政をとったが、3年後の21年(元亨1)院政を廃して後醍醐天皇の親政とした。学問を好み、仏道の修行に熱心であった。出家して法号を金剛性という。日記に『後宇多天皇(院)宸記(しんき)』がある。元亨(げんこう)4年6月25日没。陵墓は京都・蓮華峰寺(れんげぶじ)陵。[黒田弘子]

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