毛利時親(読み)もうり・ときちか

朝日日本歴史人物事典 「毛利時親」の解説

毛利時親

没年暦応4/興国2(1341)
生年:生年不詳
鎌倉末期の武将大江広元の孫経光の子。長崎泰綱の娘(亀谷局)を妻とした。法名を了禅。文永7(1270)年経光から,安芸吉田荘,越後国佐橋荘南条の地頭職伝領。元徳2(1330)年には所領を孫の親衡に譲与したが,建武政権が領家方の人物に地頭職を与えたことから,足利氏与党の立場を鮮明にして地頭職を奪回,延元1/建武3(1336)年,吉田荘に下向した。翌4年1月には,吉田荘地頭職を親衡死後は元春が相続することを定めた譲状を作成。安芸毛利氏の基礎をなした。<参考文献>『広島県史

(永井晋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「毛利時親」の解説

毛利時親 もうり-ときちか

?-1341 鎌倉-南北朝時代の武将。
毛利経光(つねみつ)の4男。越後(えちご)(新潟県)佐橋荘と安芸(あき)(広島県)吉田荘の地頭職(しき)をつぎ,六波羅評定衆となる。元弘(げんこう)の乱では曾孫毛利元春とともに足利尊氏方につき,吉田荘に一族を結集して安芸毛利氏の基礎をつくった。暦応(りゃくおう)4=興国2年7月6日死去。法名は了禅。

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世界大百科事典(旧版)内の毛利時親の言及

【毛利氏】より

…(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。…

※「毛利時親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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