室町時代の僧。浄土宗第七祖にして浄土宗教団の基礎をつくった。酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)と号する。常陸(ひたち)国(茨城県)久慈(くじ)郡に生まれ、8歳で同国瓜連(うりづら)常福寺の了実(りょうじつ)(1304―1386)に就いて出家、25歳のとき浄土宗五祖定慧(じょうえ)(1296―1370)より宗脈と戒脈を付法された。その後、諸宗の碩学(せきがく)に学んで各宗の教義に精通し、浄土宗の地位の向上に尽力した。また浄土宗の伝法(でんぼう)の儀式として五重相伝(ごじゅうそうでん)を創始し、宗侶(しゅうりょ)養成の制度を確立させた功績は大きい。『観経疏伝通記糅鈔(かんぎょうしょでんずうきにゅうしょう)』48巻、『選択伝弘決疑鈔直牒(せんちゃくでんぐけつぎしょうじきてつ)』10巻など浄土宗祖師を顕彰する著述も多く、また浄土宗と神道(しんとう)との関連を述べた述作もある。晩年は江戸・小石川に草庵(そうあん)を開いて隠栖(いんせい)。これが後の伝通院(でんずういん)である。
[阿川文正 2017年8月21日]
室町初期の浄土宗の僧。酉蓮(ゆうれん)社了誉と号し,額に三日月の相があったので三日月上人とも呼ばれる。常陸国久慈郡の人。8歳で瓜連(うりづら)の常福寺了実について出家。宗学を同国太田の蓮勝,箕田(みのだ)の定慧らに学ぶ。さらに諸宗の学匠を訪ね,天台,真言,禅,俱舎,唯識,さらに神道,和歌などの諸学を修めた。学業なるや瓜連に帰り,1378年(天授4・永和4)了実から法脈を相承,ついで常福寺に住した。当時,浄土宗が他宗から独立した宗派とみられていなかったことを嘆き,述作,講学に努め,また宗義の相承に五重相伝の法を定め,伝法制度を確立した。1415年(応永22)弟子聖聡の請により江戸小石川に移って小庵を結び,この地で没した。これが伝通院のはじまりである。彼は浄土宗が独立宗派としての内容外観を整え,教勢を挽回する基を築いたので,後世,浄土宗中興の祖と仰がれる。著書は30余部百数十巻に及ぶが,おもなものに《釈浄土二蔵義》30巻,《浄土二蔵二教略頌》1巻,《破邪顕正義(鹿島問答)》1巻,《観経疏伝通記糅鈔(にゆうしよう)》48巻,《選択伝弘決疑鈔直牒(じきてつ)》10巻などがある。
執筆者:伊藤 唯真
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(林淳)
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… 室町時代に入って,名越派は北関東から東北に,藤田派もまた東北に勢力をのばし,白旗派は関東を地盤としていた。白旗派の聖冏(しようげい)は,浄土宗が独立した宗派と認められていない状況を遺憾として,浄土宗に宗脈・戒脈の相承があることを明かし,五重相伝の法を定め,浄土宗の僧侶となるには必ず宗戒両脈を相伝しなければならぬと規定した。この伝法制度により,僧侶資格を同一形式で統一することができ,独立教団として発展していく基礎が固まった。…
…関東十八檀林の一つで,増上寺と並ぶ江戸浄土宗の名刹。1415年(応永22)了誉聖冏(しようげい)が小石川極楽水に小庵を結び,無量山寿経寺と号したのが始まりで,聖冏を開山とする。その後戦火をこうむり衰廃していたが,1602年(慶長7)徳川家康の生母於大(おだい)の方が上洛中伏見で亡くなると,遺言により遺骸を当寺に移し,増上寺の中興源誉存応(ぞんのう)を導師として葬送の法会が行われた。…
※「聖冏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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