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聖冏 ショウゲイ

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デジタル大辞泉の解説

しょうげい〔シヤウゲイ〕【聖冏】

[1341~1420]室町前期の浄土宗の僧。常陸(ひたち)の人。号、酉蓮社了誉(ゆうれんしゃりょうよ)。通称、三日月上人。神道・儒教なども学び、晩年に江戸小石川伝通院を創建した。著「伝通記糅鈔(でんづうきにゅうしょう)」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

聖冏 しょうげい

1341-1420 南北朝-室町時代の僧。
暦応(りゃくおう)4=興国2年10月15日生まれ。浄土宗第7祖。蓮勝(れんしょう),定慧(じょうえ)にまなび,天台・真言・禅・神道などもおさめる。浄土宗学の確立と宗門の発展につとめ,五重相伝の法をさだめた。晩年は江戸の草庵(のちの伝通院)に隠棲した。応永27年9月27日死去。80歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。俗姓は白石。号は酉蓮社(ゆうれんじゃ)了誉。

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朝日日本歴史人物事典の解説

聖冏

没年:応永27.9.27(1420.11.3)
生年:暦応4/興国2.10.15(1341.11.24)
室町前期の浄土宗の僧。浄土宗鎮西派の第7祖。眉間に三日月があったことから三日月上人と呼ばれる。父は常陸国(茨城県)岩瀬の城主白石宗義。父を戦乱で亡くし,8歳のときに瓜連常福寺の了実について出家した。浄土の法門を研鑽して,18歳で相模国(神奈川県)の定慧のもとに行き,宗戒両脈の相伝を受ける。のちに顕密,禅を学び,布教に尽力した。浄土宗を一宗として独立させるために,天台を真源に,真言を宥尊に,倶舎・唯識を明哲に,禅を月庵宗光,月察天命に,神道を治部大輔某に学び,新たな浄土宗学を確立した。浄土宗独自の伝宗伝戒である五重相伝を作り,同一の形式によって僧侶養成を可能とし,独立した宗派としての基盤を作った。また後世の檀林の基礎を築いた。晩年は,門下の聖聡に請われて,小石川の草庵に住み,講学述作につとめた。<著作>『釈浄土二蔵義』『浄土二蔵二教略頌』<参考文献>玉山成元『中世浄土教教団の研究』

(林淳)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

しょうげい【聖冏】

1341‐1420(興国2∥暦応4‐応永27)
室町初期の浄土宗の僧。酉蓮(ゆうれん)社了誉と号し,額に三日月の相があったので三日月上人とも呼ばれる。常陸国久慈郡の人。8歳で瓜連(うりづら)の常福寺了実について出家。宗学を同国太田の蓮勝,箕田(みのだ)の定慧らに学ぶ。さらに諸宗の学匠を訪ね,天台,真言,禅,俱舎,唯識,さらに神道,和歌などの諸学を修めた。学業なるや瓜連に帰り,1378年(天授4∥永和4)了実から法脈を相承,ついで常福寺に住した。当時,浄土宗が他宗から独立した宗派とみられていなかったことを嘆き,述作,講学に努め,また宗義の相承に五重相伝の法を定め,伝法制度を確立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

聖冏
しょうげい
(1341―1420)

室町時代の僧。浄土宗第七祖にして浄土宗教団の基礎をつくった。酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)と号する。常陸(ひたち)国(茨城県)久慈(くじ)郡に生まれ、8歳で同国瓜連(うりづら)常福寺の了実(りょうじつ)に就いて出家、25歳のとき浄土宗五祖定慧(じょうえ)より宗脈と戒脈を付法された。その後、諸宗の碩学(せきがく)に学んで各宗の教義に精通し、浄土宗の地位の向上に尽力した。また浄土宗の伝法(でんぼう)の儀式として五重相伝(ごじゅうそうでん)を創始し、宗侶(しゅうりょ)養成の制度を確立させた功績は大きい。『観経疏伝通記糅鈔(かんぎょうしょでんずうきにゅうしょう)』48巻、『選択伝弘決疑鈔直牒(せんちゃくでんぐけつぎしょうじきてつ)』10巻など浄土宗祖師を顕彰する著述も多く、また浄土宗と神道(しんとう)との関連を述べた述作もある。晩年は江戸・小石川に草庵(そうあん)を開いて隠栖(いんせい)。これが後の伝通院(でんずういん)である。[阿川文正]

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世界大百科事典内の聖冏の言及

【浄土宗】より

… 室町時代に入って,名越派は北関東から東北に,藤田派もまた東北に勢力をのばし,白旗派は関東を地盤としていた。白旗派の聖冏(しようげい)は,浄土宗が独立した宗派と認められていない状況を遺憾として,浄土宗に宗脈・戒脈の相承があることを明かし,五重相伝の法を定め,浄土宗の僧侶となるには必ず宗戒両脈を相伝しなければならぬと規定した。この伝法制度により,僧侶資格を同一形式で統一することができ,独立教団として発展していく基礎が固まった。…

【伝通院】より

関東十八檀林の一つで,増上寺と並ぶ江戸浄土宗の名刹。1415年(応永22)了誉聖冏(しようげい)が小石川極楽水に小庵を結び,無量山寿経寺と号したのが始まりで,聖冏を開山とする。その後戦火をこうむり衰廃していたが,1602年(慶長7)徳川家康の生母於大(おだい)の方が上洛中伏見で亡くなると,遺言により遺骸を当寺に移し,増上寺の中興源誉存応(ぞんのう)を導師として葬送の法会が行われた。…

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