「愚管記」貞治六年(一三六七)一二月一二日条に同月七日に死去した足利義詮の遺体を「大樹去八日夜移、毎事禅侶沙汰云々」と記し、また「和久良半の御法」に足利尊氏の三十三回忌辰の仏事の模様を述べ「さて晦日には、まづ主人払暁に仁和寺の等持院へ入せ給へば」とある。禅宗への改宗は暦応年中(一三三八―四二)、足利尊氏が夢窓疎石を請じて当寺を中興して以後とされる。尊氏の死後まもなく義詮は当院を京都天龍寺末とし、住持には天龍寺ならびに疎石門流の推挙する人物をあてることを定めた(天龍寺文書)。延文三年(一三五八)四月三〇日足利尊氏が没し、その葬送は「太平記」巻三三に描かれ、「愚管記」延文三年五月六日条は「大樹初七日仏事於等持寺行之、禅侶沙汰観音懺法云々、宰相中将自去二日坐此寺云々、五旬之間可有住寺云々」と記す。以後歴代足利将軍の葬送はすべて当院で営まれることが慣例となる。先述の尊氏の子義詮、応永一五年(一四〇八)五月六日に死去したその子義満(「鹿苑院殿薨葬記」ほか)、また長享三年(一四八九)三月に近江
に付されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市北区にある臨済宗天竜寺派の寺。山号は万年山。本尊は釈迦如来。暦応年間(1338-42)足利尊氏が夢窓疎石を開山に招請して,衣笠山山麓の現在地に開創。尊氏の弟の直義も同じ寺名の等持寺(等持院とも呼ぶ)を洛中の三条坊門に建てたので,区別して室町時代には〈北等持〉とも呼ばれた。1358年(正平13・延文3)尊氏は当寺に葬られ,以後,歴代足利将軍の葬送が行われ,その廟所となり,また寺内に将軍歴代の像や位牌がまつられることとなった。幕末の1863年(文久3)尊皇攘夷派の武士が乱入して尊氏・義詮(よしあきら)・義満の木像の首を切り,鎌倉以来の逆臣として三条河原にさらした事件が起こった。その後,木像は修理され,いま霊光殿に安置される。江戸時代の朱印寺領326石余。1808年(文化5)火災があり,現在の堂舎はその後の復興である。なお,夢窓の作という芙蓉池を中心とした林泉は,景趣に富む名園として江戸時代からよく知られている。
執筆者:藤井 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
京都市北区等持院北町にある臨済(りんざい)宗天竜寺派の寺。万年山と号する。本尊は釈迦牟尼(しゃかむに)仏。1341年(興国2・暦応4)足利尊氏(あしかがたかうじ)が夢窓疎石(むそうそせき)を招いて開創、初め二条高倉にあって等持寺と称した。1358年(正平13・延文3)尊氏が没するとこの寺に葬り、法名を等持院殿と号し、寺名も等持院と改めた。以来、足利家歴代の廟所(びょうしょ)として栄え、十刹(じっさつ)の第一位とされた。現本堂(方丈)は妙心寺塔頭(たっちゅう)から移建されたもので、1616年(元和2)福島正則(まさのり)が建立した古建築である。尊氏以下、足利氏歴代将軍の木像が霊光殿に安置されている。寺宝の等持寺絵図は国重要文化財。境内には夢窓国師作と伝える庭園、茶室清連(せいれん)亭がある。
[菅沼 晃]
京都市北区にある臨済宗天竜寺派の寺。万年山と号す。開山は夢窓疎石(むそうそせき)で,開基は足利尊氏。もと真言宗で仁和寺の子院だったが,暦応年間(1338~42)夢窓によって中興され,禅寺となる。歴代足利将軍の葬送はすべてここで行われ,足利家の菩提寺として崇敬された。尊氏・義詮(よしあきら)・義満ほかの木像,「等持寺絵図」(重文)などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報