永原村(読み)ながはらむら

日本歴史地名大系 「永原村」の解説

永原村
ながはらむら

[現在地名]野洲町永原

中北なかきた村の南にあり、南西家棟やなむね川が北流する。集落の多くは南東辺を北東から南西へ走る朝鮮人街道沿いに並ぶが、街道西方永原御殿と菅原すがわら神社が隣接する付近にも集落がみられる。耕地には近年まで条里地割が認められ、菅原神社付近から白鳳時代の古瓦も出土する。四拾軒町よんじつけんちよう五拾軒町ごじつけんちようの字名をもつ街道沿いの集落は、街道と並行する水路との間に整然と並んでおり、南隣の富波沢とばさわ村・新町しんまち村の集落と同様に計画的な景観を保つ。織田信長の近江入国後の街道筋の整備に伴い、移住したものと考えられる。永禄元年(一五五八)一二月一一日に提出された保内商人申状案(今堀日吉神社文書)には、昔より保内から紙を卸していた地の一として永原をあげている。元亀元年(一五七〇)五月一三日信長は上洛の帰途永原に至り、佐久間信盛に永原城を与えた(「信長公記」など)


永原村
ながはらむら

[現在地名]佐伯町永原

友田ともた村の北東に位置する。四方を山に囲まれ、玖島くじま(峠川)沿いの南北の細長い小平地に集落が展開する。中世は友田郷のうちに含まれ、地名は貞和五年(一三四九)閏六月一一日付の厳島社惣政所公事免状案(小田文書)に「大窪長原百姓等申」とみえる。この頃当地は厳島社引声料所、当村域内の大窪おおくぼ(大久保)も同社竹垣料所であった。正平七年(一三五二)三月八日付の久島郷地頭代名田充文(同文書)に「なかわら」、永享三年(一四三一)三月二七日付のそう四郎入道去渡状(同文書)に「なかはら」、明応三年(一四九四)一〇月一五日付の下総守某寄進状(野坂文書)に「土毛田郷長原名」とみえる。


永原村
ながはらむら

[現在地名]天理市永原町

長柄ながら村北方に所在。「大和志」には「長原」とある。古代の長屋ながや郷・永原郷の地(→長屋郷慶長郷帳には「長原村」とあり村高六九五石、初め幕府領(代官大久保長安)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領。同藩の二割半無地高増政策で村高八六九石。延宝七年(一六七九)以降幕府領。

福知堂村手覚年代記写(別所町の乾家文書)元治元年(一八六四)に「五月五日九ツ時前永原村新(池)東の方海道壱町北より四五間計南ニ而出家之首切落し、侍四人大坂江向首持帰り候、其死体之上ニ書印シ有之、岡田式部、右之通之者(ママ)甲寅(安政元年)已来姦人ニ乗し、種々(ママ)穴鼠致候所、近来落髪、名を心蓮と改画師と称し、諸方流寓致居候所、天誅不可逃、今日此地ニ令刺戮候、首級携帰候得共、死体其儘捨置候間、乍面倒始末万端領土人江(詑)候、已上付罪状委細ハ梟首之処ニ可掲示者也」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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