日本歴史地名大系 「永昌宿」の解説 永昌宿えいしようしゆく 長崎県:諫早市永昌村永昌宿[現在地名]諫早市永昌町江戸時代の長崎路(長崎街道)に設けられた宿駅。栄昌宿とも記す。長崎と豊前小倉(こくら)(現福岡市小倉北区)を結ぶ脇街道で、幕府役人や長崎警備の筑前福岡藩・肥前佐賀藩の通行に用いられたほか、商人や文人の往来も多かった。半里の諫早、三里半の湯江(ゆえ)宿(現高来町)・矢上(やがみ)宿(現長崎市)、二里半の大村、四里の愛津(あいつ)村(現愛野町)に継立てた。諫早町(諫早駅)の宿駅機能を本宿と称していたのに対して永昌宿は新宿とされ、天明三年(一七八三)に「長崎江之通路、本通宿駅」として「栄昌」とみえている(「泰国院年譜地取」佐賀県立図書館蔵)。同年の佐賀領郷村帳に「新宿」とあり、栄昌というと記され、嘉永七年(一八五四)の佐賀領郷村帳でも「新宿又云栄昌」とする。安政四年(一八五七)佐賀藩は異国船来航などでことのほか人馬継立が多いとして栄昌など領内の五ヵ駅の人馬賃銭割増願(諫早日記)を長崎奉行に提出、そのなかで「栄昌駅本宿にはこれなく候へども」、本宿と同様に人馬継立および宿役を勤めていると記している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by