長崎県南東部の市。2005年3月旧諫早市と飯盛(いいもり),小長井(こながい),高来(たかき),多良見(たらみ),森山(もりやま)の5町が合体して成立した。人口14万0752(2010)。
諫早市南西端の旧町。旧北高来郡所属。1965年町制。人口8034(2000)。北は諫早市,西は長崎市に接し,南は橘湾に臨む。周囲を小高い丘陵に囲まれた盆地状の低地にあり,前面は干拓地である。中央を雲仙に至る国道251号線が走る。古くから農漁業が基幹産業で,労働力の流出,兼業化の進むなかで米のほか,ジャガイモ,ニンジンが高い生産性を維持し,花卉園芸も盛んである。近年,長崎市と旧諫早市のベッドタウン化が進んでいる。
執筆者:松橋 公治
諫早市中央部の旧市。多良岳,島原半島,長崎半島の交錯する地峡部にある。1940年市制。人口9万5182(2000)。江戸時代は佐賀藩諫早領の旧城下町として,また周辺農村の中心地として栄えた。1898年に現在のJR大村線が開通し,続いて島原鉄道,長崎本線が通じて諫早駅は分岐点となり,通過する4本の国道と合わせて交通の要衝となった。長崎自動車道のインターチェンジがある。東部は江戸時代以降に干拓された諫早平野が広がり,県最大の穀倉地帯であるが,さらにその前面に広がる干潟を干拓し農地化する国の諫早湾干拓事業が,建設の有用性や環境破壊に関する論議の高まるなか,工事は進行している。長崎市に近い西部には,近年西諫早ニュータウンや造船業に関連した金属工場団地そしてIC工場などの立地した諫早中核工業団地が形成され,市は商工業の機能を強めている。有明海に注ぐ本明(ほんみよう)川の三角州に発達した市街地は,1957年の集中豪雨による大水害で泥土と化したが,今は復興している。大水害に耐えた眼鏡橋(1839年に架けられた石橋)は,河川改修のため諫早公園に移築復元され,1958年に国の重要文化財に指定された。諫早公園はもとの領主諫早家の居城,高城(たかしろ)の跡を公園にしたもので,ツツジの名所である。
執筆者:竹内 清文
諫早市北東端の旧町。旧北高来郡所属。1966年町制。人口6676(2000)。多良岳の南東斜面に位置し,南東は有明海に臨む。農業が主産業で,1960年代以降ミカン栽培,乳牛,肉牛の飼養,養豚などが導入され農業の基幹をなしている。多良岳山麓の安山岩の一種である〈帆崎石〉の採石は江戸時代から盛んで,有明海の干拓堤防材として生産された。干拓事業の最盛期には町民の半数近くが石材産業に携わり,小長井港は石材の積出港としてにぎわった。川内名に天然記念物のオガタマノキがある。JR長崎本線,国道207号線が通じる。
諫早市北東部の旧町。旧北高来郡所属。人口1万1092(2000)。北は佐賀県,西は旧諫早市に接し,南は有明海に面する。北西部は多良岳,五家原岳などの山地で,ここから発する境川,小江川などが南流して扇状地を形成し,有明海に注ぐ。集落は海岸近くに発達し,海岸沿いをJR長崎本線,国道207号線が走る。主産業は農漁業で,山麓斜面ではミカン栽培,河川沿いや海岸部では米作,養豚などが行われる。漁業ではノリ,カキの養殖が盛ん。多良岳一帯は県立自然公園に属し,山腹にあるツクシシャクナゲ群落は天然記念物に指定されている。
諫早市西端の旧町。西彼杵(にしそのぎ)郡所属。1965年町制。人口1万7056(2000)。長崎市と旧諫早市の間に位置し,大村湾をはさんで大村市と対する。JR長崎本線,国道34号線が通り,九州横断自動車道多良見インターチェンジがある交通の要衝で,現在は長崎市と旧諫早市のベッドタウンとして人口増加を示している。喜々津地区は住宅開発とともに県内外から中小企業の進出が著しく,商工業の中心として発展している。大草・伊木力地区はミカン栽培を主にした農村地域である。
諫早市南東端の旧町。旧北高木郡所属。1969年町制。人口6259(2000)。島原半島基部の地峡部中央に位置し,西は諫早市に接する。南部は橘湾に面し,起伏の多い丘陵地帯である。北部は諫早平野の一角を占め,有明海の干拓地が広がる。北寄りを島原鉄道,国道57号線が並行して走り,南寄りに国道251号線が通じる。諫早平野は長崎県の穀倉で,米作,トマト,メロンやニラの栽培が行われる。唐比(からこ)地区の名産のれんこんは,1957年の諫早大水害以降は産量が激減したが,近年水田転作として再び導入されている。有明海沿岸のノリ養殖は減少している。
執筆者:松橋 公治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
長崎県南東部にある市。1940年(昭和15)市制施行。この市制施行は、干拓事業や灌漑(かんがい)用水の水源である本明(ほんみょう)川を通じて、互いに利害をともにする関係7町村(諫早町、小栗(おぐり)、小野(おの)、有喜(うき)、真津山(まつやま)、本野(もとの)、長田(ながた)の各村)の合意によって成立した。2005年(平成17)西彼杵(にしそのぎ)郡多良見町(たらみちょう)、北高来(きたたかき)郡の森山町(もりやまちょう)、飯盛町(いいもりちょう)、高来町(たかきちょう)、小長井町(こながいちょう)を合併。これにより北高来郡は消滅した。多良岳(たらだけ)火山、島原半島、長崎半島の3地帯の中間に位置し、諫早湾、大村湾、橘(たちばな)湾に臨む。JR西九州新幹線、長崎本線、大村線と島原鉄道が通じ、長崎自動車道、国道34号、57号、207号の交点にあたり、長崎市や雲仙天草(うんぜんあまくさ)国立公園の玄関口として交通上の要地。南岸部を国道251号が通る。市街地は、本明川畔の亀城(かめのしろ)(高城(たかしろ)ともいう。現、諫早公園)を中心に建設された城下町で、栄町(さかえまち)、本町(ほんまち)が中心をなす。市域内の干拓地は3000ヘクタールに及ぶ田園都市で、長崎県の穀倉地帯をなし、県農林技術開発センター、県立農業高校や多くの農機具店、種苗店などがあり、農産物の集散地をなす。1957年(昭和32)本明川の大水害で市街地は泥土と化したが、現在はまったく復旧している。この水害の際、流失せずに流木をせき止めたため、かえって市街地の災害を大きくしたといわれる堅固な眼鏡橋(めがねばし)(国指定重要文化財)は、現在は取り外されて諫早公園内に移されている。
長崎市の過密化に伴い、市街西方に工場団地や住宅団地の形成が進み、盛期には貝津工業団地の事業所数は106に上り、また西諫早ニュータウンは人口2万人を数えた。北部の多良岳山腹には標高500メートル前後の等高線に沿って農道が建設され、ミカン、野菜、酪農を軸とした営農団地が形成された。飯盛地区のショウガや小長井地区の帆崎石は特産。かつて諫早湾は魚貝類の生産性の高い海域であったが、干拓事業により漁場環境が悪化し、養殖ノリの変色や名物のムツゴロウ、貝類の死滅など甚大な漁業被害が生じた。本明川上流の富川(とみがわ)渓谷には、元禄(げんろく)年間(1688~1704)の水害による犠牲者を弔う五百羅漢(らかん)を線刻した磨崖仏(まがいぶつ)がある。多良岳一帯は多良岳県立自然公園に指定される。面積341.79平方キロメートル、人口13万3852(2020)。
[石井泰義]
『『諫早市史』(1955~1962・諫早市)』
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…県域には海岸線から10km以上内陸に入ったところはないうえに海岸に山地が迫るところが多く,谷底平野の発達はきわめて悪い。平野はわずかに大村湾東岸の郡(こおり)川がつくる大村平野と,諫早(いさはや)湾岸の干拓によって造成された諫早平野があるにすぎない。したがって河谷や入江ごとに,また半島や島嶼ごとに細分化され,交通上の障害によってそれぞれ孤立して小規模な農漁村地域社会を形成し,江戸時代は小藩が分立していた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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