永田 秀次郎
ナガタ ヒデジロウ
- 肩書
- 貴院議員,拓相,鉄道相,東京市長,拓殖大学長
- 別名
- 俳号=永田 青嵐(ナガタ セイラン)
- 生年月日
- 明治9年7月23日
- 出生地
- 兵庫県緑町(淡路島)
- 学歴
- 三高法学部〔明治32年〕卒
- 経歴
- 明治35年郷里の州本中学校長を振り出しに、大分県視学官、福岡県内務部長、京都府警察部長、三重県知事などを経て、大正5年内務省警保局長となり、7年の米騒動に対処、退官して貴院議員となる。その後、東京市長後藤新平に請われて助役となり、12年市長に就任して大震災に遭遇、いったん辞任し、昭和5年市長に返り咲いた。その後、帝国教育会長、教科書調査会長、拓殖大学長などを歴任。11年選挙粛正連盟理事長から広田内閣の拓相となり、さらに阿部内閣の鉄道相を務めたあと、17年陸軍の軍政顧問としてフィリピン滞在するが、マラリヤにかかり帰国。三高時代から高浜虚子と親しくして俳句をよくし、著書に「青嵐随筆」「浪人となりて」「永田青嵐句集」(遺句集)がある。
- 没年月日
- 昭和18年9月17日
- 家族
- 息子=永田 亮一(衆院議員) 孫=永田 秀一(兵庫県議)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
永田 秀次郎
ナガタ ヒデジロウ
大正・昭和期の内務官僚,政治家,俳人 貴院議員;拓相;鉄道相;東京市長;拓殖大学長。
- 生年
- 明治9年7月23日(1876年)
- 没年
- 昭和18(1943)年9月17日
- 出生地
- 兵庫県緑町(淡路島)
- 別名
- 俳号=永田 青嵐(ナガタ セイラン)
- 学歴〔年〕
- 三高法学部〔明治32年〕卒
- 経歴
- 明治35年郷里の州本中学校長を振り出しに、大分県視学官、福岡県内務部長、京都府警察部長、三重県知事などを経て、大正5年内務省警保局長となり、7年の米騒動に対処、退官して貴院議員となる。その後、東京市長後藤新平に請われて助役となり、12年市長に就任して大震災に遭遇、いったん辞任し、昭和5年市長に返り咲いた。その後、帝国教育会長、教科書調査会長、拓殖大学長などを歴任。11年選挙粛正連盟理事長から広田内閣の拓相となり、さらに阿部内閣の鉄道相を務めたあと、17年陸軍の軍政顧問としてフィリピン滞在するが、マラリヤにかかり帰国。三高時代から高浜虚子と親しくして俳句をよくし、著書に「青嵐随筆」「浪人となりて」「永田青嵐句集」(遺句集)がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
永田秀次郎
ながたひでじろう
[生]1876.7.23. 兵庫,淡路島
[没]1943.9.17. 東京,雑司ヶ谷
官僚,政治家。第三高等中学校卒業後,1900年高等文官試験に合格した。 26歳で洲本中学校長,のち三重県知事,内務省警保局長などを歴任,18年退官して貴族院議員に勅選された。 23年後藤新平の跡を継いで東京市長に選ばれ,関東大震災後の東京復興に尽した。 30年再度東京市長に選ばれ,東京市隣接5郡 82ヵ村の合併,小河内貯水池計画の実施など東京市政に大きな足跡を残した。 36年広田弘毅内閣の拓務大臣,39年阿部信行内閣の鉄道大臣に就任。のち陸軍占領地軍政最高顧問としてサイゴンに赴任。俳人青嵐としても知られる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
永田秀次郎 ながた-ひでじろう
1876-1943 大正-昭和時代前期の官僚,政治家。
明治9年7月23日生まれ。三重県知事,内務省警保局長などを歴任。大正7年貴族院議員。のち東京市長,拓務相,鉄道相,拓殖大学長などをつとめる。高浜虚子としたしかった。俳号は青嵐(せいらん)。昭和18年9月17日死去。68歳。兵庫県出身。第三高等学校卒。著作に「平易なる皇室論」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
永田 秀次郎 (ながた ひでじろう)
生年月日:1876年7月23日
大正時代;昭和時代の内務官僚;政治家;俳人。三重県知事;拓殖大学学長
1943年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報