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明治~大正時代の政治家。安政(あんせい)4年6月4日水沢藩士の家に生まれる。福島の須賀川(すかがわ)医学校を卒業後、愛知県病院長を経て1883年(明治16)に内務省衛生局に入る。2年間のドイツ留学ののち、1892年に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いた。この間、相馬(そうま)家の財産騒動に巻き込まれ入獄も経験した。1898年より8年間、児玉源太郎総督のもとで台湾総督府民政局長を務め、島民の反乱を抑え、諸産業の振興や鉄道の育成を図るなど植民地経営に手腕を振るった。その実績を買われて1906年(明治39)には南満州鉄道株式会社初代総裁に就任した。また貴族院議員に勅選され、1908年第二次桂太郎(かつらたろう)内閣に入閣し逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁、1912年(大正1)第三次桂内閣でさらに拓殖局総裁を兼ね、1916年寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣では内務大臣、鉄道院総裁を務め、のちに外務大臣としてシベリア出兵を推し進めた。1920年に東京市長に就任、8億円の東京市改造計画を提案し、1922年には東京市政調査会を創立し、関東大震災(1923)後の復興にあたっては第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の内務大臣と帝都復興院総裁を兼任するなど都市改造に力を尽くした。また1923年にはソ連代表ヨッフェを招き会談、ソ連との国交回復を図った。東京放送局総裁、東京連合少年団団長を務め、政治倫理化運動を行い、1928年伯爵。昭和4年4月13日に73歳で没した。
明治国家の発展とともにその最先端の領域を歩き、衛生行政、植民地経営、都市政策に多くの業績を残した。それは新たな方式による国家利益誘導の試みであった。しかしその試みはしばしば既存の体制と衝突し、東京市改造計画案は「大風呂敷(おおぶろしき)」と評され、40億円の震災復興計画は規模、費用、計画主体などすべての点で後退を迫られた。
[成田龍一]
『鶴見祐輔著『後藤新平』全4巻(1937~1938・後藤新平伯伝記編纂会)』▽『鶴見祐輔他著『正伝・後藤新平』全8巻・別巻1(2004~2007・藤原書店)』
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官僚,政治家。水沢藩出身。須賀川医学校卒。愛知県立病院長を経て内務省に入り,1892年衛生局長となったが,相馬事件で一時連座入獄。日清戦争の時陸軍の検疫事務を担当,その功で98年総督児玉源太郎から台湾総督府民政局長に抜擢(ばつてき)された。島民の反抗を鎮圧して治安を維持し,砂糖,ショウノウなどの産業を開発するなど初期の植民地経営に手腕を発揮,1906年南満州鉄道会社(満鉄)初代総裁に就任,同年男爵。満州経営につき政府に長文の意見書を提出し,満鉄でも思いきった人事や機構作りを行うなど,日本の大陸経営の基礎を築いた。08年から桂太郎内閣の逓相,鉄道院総裁,16年寺内正毅内閣の内相,18年外相となり,藩閥政権末期の政界に重きをなす。ロシア革命がおこるとシベリア出兵を唱え,外相としてこれを実現させた。20年東京市長,22年子爵。23年にはソ連政府代表ヨッフェと私的会談を行い,日ソ国交樹立を準備した。同年山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁に就任,関東大震災後の東京の都市計画の立案にあたった。その後東京放送局総裁,少年団(ボーイ・スカウト)総長などを務め,政治倫理化運動を推進,28年伯爵。実務官僚の手腕と独自の政治哲学をもち,日本帝国主義確立期の代表的政治家。
執筆者:岡部 牧夫
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(原田英美 ライター / 2011年)
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(季武嘉也)
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明治・大正期の政治家,伯爵 東京市長;満鉄初代総裁;内相;逓信相。
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1857.6.4~1929.4.13
明治・大正期の政治家。陸奥国胆沢郡生れ。医学を学び愛知県病院長などをへて1883年(明治16)内務省に入り衛生行政に尽力,98年から台湾民政局長(のち長官)として植民地行政に卓越した手腕を発揮した。1906年初代南満州鉄道総裁,08年第2次桂内閣逓信相を務める。16年(大正5)寺内内閣の内相,18年外相に転じてシベリア出兵を推進した。第1次大戦後の欧米を見聞し,社会改革推進の大調査機関設立を提案した。20年東京市長に迎えられ都市計画などにとりくむ一方,23年には極東駐在ソ連代表ヨッフェを日本に招致して会談するなど,日ソ国交調整に尽力した。関東大震災時には内相として東京復興計画立案の中心となり,23年末,第2次山本内閣の総辞職とともに下野し,以後政治の舞台には立たなかった。
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…鎌倉前期の歌人,鴨長明は,尾張大野の浜で海水を浴び,〈生魚のみあへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ〉と詠み,源実朝も鎌倉で医療のために海水浴をしたといわれる。日本で海水浴という用語(おそらく英語からの訳)を初めて用いたのは軍医総監松本順(良順)だが,1881年愛知県立病院長後藤新平が医療的効果を説いて,愛知県千鳥ヶ浜(もとの尾張大野)に日本最初の海水浴場を開き,85年には松本順らが神奈川県大磯の照ヶ崎海岸に海水浴場を開いた。その後各地の海浜で海水浴場を名のるところが増え,たんに医療や保養のためでなく,遊泳を目的に利用する人々が多くなり,海水浴は日本でもっとも大衆的な夏のレクリエーションとして発達した。…
…索引1冊から成り,1905‐15年に刊行された。日清戦争の結果,台湾が日本の植民地となると,総督府民政長官後藤新平は台湾統治上の必要から1901年に臨時台湾旧慣調査会を発足させ,専門学者による現地旧慣の科学的調査に着手した。その主な成果が《台湾私法》とこの《清国行政法》である。…
…1874年ごろに鈴木岩治郎が神戸で創業した砂糖商に始まるが,その発展は94年の岩治郎の死後,番頭の金子直吉,柳田富士松によってもたらされた。日本の台湾領有後,鈴木商店は台湾総督府民政長官の後藤新平と結びつき,台湾樟脳専売制施行(1899)に際して樟脳油の一手販売権を獲得し,発展の糸口をつかんだ。また1903年には大里(だいり)製糖所を設立し,生産部門への進出を開始した。…
…誠胤は時の東京帝大教授三宅秀らの鑑定により精神病と断定され,東京府癲狂院(松沢病院の前身)に収容されるが,これを不満とする錦織と相馬家のあいだではその後も訴訟の応酬がつづき,誠胤が糖尿病で死亡してからも,毒殺の疑いのため遺体の発掘調査が行われたりした。94年,錦織は重禁錮4年,罰金40円の判決をうけて,事件はついに落着したが,錦織側を支援したと思われる後藤新平(当時,内務省衛生局技師)は証拠不十分で無罪だった。なお,こんにちの精神医学の知識では誠胤は精神分裂病と推定される。…
…こうした直接統治策をとった日本の台湾支配は,初めの3年,漢族系官・民の激しい武力抵抗にあい,帝国議会では台湾売却論さえ出る始末だった。98年以降約10年間,民政長官後藤新平は第4代総督児玉源太郎のもとで,あめとむちを併用した辣腕政治を行った。〈匪徒刑罰令〉を行使して抗日ゲリラを問答無用で刑死に追い込む一方,地主士紳層には〈饗老典〉(耆老を集め酒宴や菓銭を供与),〈揚文会〉(漢詩を士紳儒者らと吟じる会)を開催し,紳章(一種の勲章)の佩帯をすすめるなどのあめをしゃぶらせて懐柔を試みた。…
…日中両国が全面衝突の状態に入った37年の翌年には,〈対支文化事業〉は外務省から対華工作機関の興亜院に移管され,外務省文化事業部も42年には〈戦時下不急の事業〉として廃止された。
[台湾,満州における文化政策]
日清戦争によって日本に割譲された台湾では,日本の植民地支配に対する島民の抵抗が強く,児玉源太郎が総督,後藤新平が民政長官になった1898年に,ようやく軍政から民政に移行した。公学校における島民子弟の日本化教育などを通じて進められる同化政策に対抗する島民の反日運動の一つが,台湾文化協会(1921)という形態をとったことは示唆的である。…
…〈明治の東京〉は崩壊し,〈帝都復興〉とともに,以後,東京は新たな段階を迎える。内相で帝都復興院総裁を兼任した後藤新平の帝都復興都市計画は,激しい反対のなかで縮小され(当初30億円計上された復興費は12億円に削減),後の東京の発展に禍痕を残した。ちなみにこの計画の基本方針としては,遷都はしないこと,ニューヨーク市政調査会理事ビアードCharles Austin Beard(1874‐1948)に委嘱して欧米式の最新の都市計画を採用すること,地主に対して断固たる態度をとることがあった。…
…1919年,政府は都市計画法と市街地建築物法を制定し,無秩序な都市形成の規制を図るが,都市自治体には計画権限は付与されなかった。22年,当時東京市長であった後藤新平は東京市政調査会を設立,アメリカからビアードCharles Austin Beardを招聘し東京市政の調査をゆだねた。彼の《東京市政論The Administration and Politics of Tokyo》(1923)は,都市行政論の名著とされる。…
…腐敗の粛正,行政の能率化,科学化を求めて市政改革city reformの運動が高まった。その中心人物C.ビアードが東京市長後藤新平に関東大震災の前後2回招かれ,その成果を日本に伝え,雑誌《都市問題》の創刊(1925)にも寄与した。さらにこの前後の日本では,大正デモクラシーの名に伴う形で後藤を助けた池田宏や大阪の名市長関一をはじめ多くの人材が出て,上記のような問題の把握からする都市計画の推進や,新しく広がる失業・貧困に対する社会政策事業の拡大を唱えた。…
…このころアメリカ石油資本が北樺太油田開発の着手を試みて日本海軍を強く刺激し,また,極東ソ連領漁業もソビエト政府が支配して極東共和国合併以前の漁業条約を無効とするなどの政策を推進した。これらの懸案打開のため,後藤新平は中国にいたソビエト全権代表A.A.ヨッフェを日本に招いて私的会談(後藤=ヨッフェ会談)をもち(1923年3月7日~6月16日),さらにこれを駐ポーランド公使川上俊彦との予備交渉に引きついだ(1923年6月28日~7月31日)。これらの交渉では北樺太問題,尼港事件問題,宣伝禁止問題が論議され,のちの日ソ間交渉の地ならしの役を果たした。…
…この権利を運用するため06年勅令第142号〈南満州鉄道株式会社設立の件〉により児玉源太郎を委員長とする南満州鉄道株式会社設立委員会が設置され,このもとで06年11月に設立された。創立当初の資本金は2億円で半額は日本政府の現物出資,初代総裁は後藤新平であった。資本金は20年4億4000万円,29年8億円,40年16億円に増資され,〈満州〉最大の国策会社として交通,鉱工業部門を中心に関連各部門をその傘下に収め,満鉄コンツェルン,もしくは〈満鉄王国〉と称された。…
※「後藤新平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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