池河内村(読み)いけのこうちむら

日本歴史地名大系 「池河内村」の解説

池河内村
いけのこうちむら

[現在地名]敦賀市池河内

西・南・北を山に囲まれ、東のみ開ける。西の山道谷口たにぐち村に至る。集落の西の阿原あわら池はしようノ川の水源地。若狭国大飯郡うら(現高浜町)から移住した村と伝える。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に池ケ河内村とみえ、高五八石余。正保郷帳も同高で田方四二石余・畠方一六石余。天和二年(一六八二)小浜藩領より鞠山藩領となる。享保一二年(一七二七)には庄屋孫大夫(持高五石余)、牛馬銀一二匁余、新山手銀一三二匁、新出来米八斗余、渋柿二斗代米一斗二升、一二石代米四石、夫役七ツ、夫米四俵三斗余、馬足一四、牝馬一八、家数三四(うち高持一六・無高一七・寺一)、人数一五八(敦賀郷方覚書)

池河内村
いけのこうちむら

[現在地名]小浜市池河内

門前もんぜん村の東南、松永まつなが谷の最奥に位置し、松永川を挟んで集落を形成する山村伝承では文治三年(一一八七)頃立村され、当初は池河原いけのがわらと称したという(松永村誌)。池河内の地名は文亀二年(一五〇二)三月二四日付の明通寺寄進札にみえる。

正保郷帳によれば田方三八石余・畠方三五石余で、松永谷諸村のうち最も高は少ない。その割に家数は多く、文化七年(一八一〇)一二月の六ケ村出入ニ付一札(池河内区有文書)には惣中七四人が記され、明治二年(一八六九)一二月の村方歎願書(同文書)には「村家数も多、渡世ニ甚難義可仕場所ニ、山家之事故外ニ方も無之、往昔より炭焼業第一ニ相、年々恐多御収納太切ニ相勤」とあって、主たる生業は炭焼であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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