池田渡
いけだのわたし
東海道見付宿(現磐田市)と浜松宿の間に位置する天竜川左岸の渡船場。東海道は見付宿の南の中泉村(現磐田市)辺りから北西に向かって一言村・宮之一色村などを経過し、立野村飛地長森で北に方向をかえて池田村まで直進する。渡船業務は対岸の船越一色村(現浜松市)との間で行われた。安藤広重「東海道五十三次」見附図は池田渡船場を描く。天正元年(一五七三)一一月一一日、徳川家康は「天竜池田渡船之事」として船守に対し、天竜川を上下する際には誰の知行地であっても地形を選んで通航することを認め、三五軒と寺の棟別銭を免除し、ほかに一二座の役を免除したと考えられる。また分国中で夏と秋の升入勧進を認めている。同三年二月一六日には渡船を利用する人々が船が遅いからといって船頭らを打擲することを禁じている(「徳川家康判物写」大庭文書)。家康は武田軍との元亀三年(一五七二)の一言坂と翌天正元年の合戦で、池田渡船衆が蘆の間に隠した舟で西岸に逃れえたことから、池田渡船衆に渡船の権利を与えたという。
渡船場は万治年間(一六五八―六一)頃には「長森茶屋之西」(「糀屋記録」は長森之藪西)にあり、対岸中野町屋村(現浜松市)と渡していたが、川瀬の変化によって子安森(現浜松市)に移った(寛文元年「成瀬七左衛門覚書」成瀬家文書、「糀屋記録」)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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