見付宿(読み)みつけしゆく

日本歴史地名大系 「見付宿」の解説

見付宿
みつけしゆく

[現在地名]磐田市見付・水堀みずほり富士見町ふじみちよう富士見台ふじみだいみどりおか元天神町もとてんじんちよう国府台こうのだい今之浦いまのうら

磐田原台地の南端ほぼ中央にある。見付町とも称され、一町で磐田郡を構成。東海道の宿場で、東木戸は東坂ひがしざか町、西木戸はよこ町にあり、道筋は東坂町から西坂町へ東西に通り、同町から南へ折れて横町に至る。

天正一九年(一五九一)と推定される四月一〇日、普伝斎寿鳳から閑阿弥入道と米屋弥二郎に見付問屋が申付けられた(「普伝斎寿鳳手形」成瀬家文書)。普伝斎寿鳳は徳川家康の関東移封後、見付の支配にあたった人物とみられる。文禄四年(一五九五)四月には代官とみられる正鶴から見付の問屋定書が米屋に発給され、問屋は十五日番(半月交替)とすること、以前には年寄一〇人に命じたが今後は閑阿弥と米屋に申付けること、宿荷は毎日一駄ずつ取置き、地下の入目とすること等が伝えられた(「某正鶴定書」同文書)。正鶴宛の閑阿弥・米屋連署書状(同文書)によると、「御国替以来、天下諸役無之」状態となり、伝馬人足ら一〇〇余人が見付宿から郷中に散じたといい、両人の訴願により代官とみられる掃部は諸商人が荷物の取引・運輸・宿泊を見付以外の地で行うことを禁ずる旨を見付年寄に伝えた(「某掃部手形」同文書)。慶長六年(一六〇一)一月徳川氏から伝馬朱印状(同文書)が見付に与えられ、東海道見付宿が成立した。同月、伊奈備前守忠次ら徳川家奉行衆は連署手形(同文書)を出し、「江戸迄上下之御伝馬」の使用は先の伝馬朱印状と照合して出す旨を命じた。このとき東の次宿は懸川かけがわであったが、元和二年(一六一六)懸川・見付間に袋井宿が置かれた(「徳川頼宣家年寄衆連署達」大田家文書)。見付・浜松間の道法は三里七町であったが、天竜川渡船場が移動して四里七町に延びたため、寛文元年(一六六一)見付宿東坂問屋成瀬七左衛門の訴願により、幕府は道法変更と一里分増駄賃を決定した(「成瀬七左衛門覚書」成瀬家文書)。寛永期(一六二四―四四)に東海道五十三次が成立すると、見付宿は江戸から二八番目の宿場となり、京へ七〇里、江戸へ五九里半で東海道のほぼ中央に位置した。宿地内は東西二五町四一間半・南北二八町余、東地境より宿入口まで八町一一間半、東宿入口木戸より西木戸まで九町四〇間、西木戸より西地境まで七町五〇間。池田いけだ(現豊田町)への近道入口が西坂町に二ヵ所あり、往還旅人の通行は禁止されていた。池田近道はのちに東海道の脇街道本坂道へ通じる道となっていた(明和七年「宿明細帳」西光寺文書)


見付宿
みつけしゆく

鎌倉時代にみえる宿名。奈良西大寺叡尊の鎌倉への往復を記録した「関東往還記」の弘長二年(一二六二)二月二四日条に「中食之後、渡富士河、於同国見付宿儲茶」とあり、富士川浮島うきしまヶ原の間の宿である。高階宗成が弘安(一二七八―八八)頃に東国へ下った時、「ふしかはの そこみえさりし はやさこそ おもひいつるも たゝならぬ たこの浦浪 いつとなく たゝぬ日もなき 旅人は みつけいま井に ゆきつれて」と詠んでいる(遺塵集)。建武二年(一三三五)一二月「箱根竹之下」の合戦に敗れた新田義貞らが「今井・見付ヲ過ル処」付近で小山の上に陣取っていた足利方の武田・小笠原の兵と戦闘したという(「太平記」巻一四)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の見付宿の言及

【スッポン(鼈)】より

…江戸では〈ふた(蓋)〉と呼んで,これをたしなむ人がしだいに多くなり,価格も高騰したようで,喜多村筠庭は《瓦礫雑考》(1818)の中で,〈今江戸のすっぽん貴きこと,京師にくらぶれば五倍に過(すぐ)べし〉といっている。ちなみに,寛政(1789‐1801)ころから東海道の名物になった見付(みつけ)宿(現,静岡県磐田市)の茶店のスッポンも,それまで食べる人がいなかったものをとらえて煮売りして,味と安さで人気を博したもののようである。いまではスッポンなべのほか汁や雑炊にすることが多く,その生血を強壮剤として愛用する人もある。…

※「見付宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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