沢井村(読み)さわいむら

日本歴史地名大系 「沢井村」の解説

沢井村
さわいむら

[現在地名]青梅市沢井・御岳本町みたけほんちよう

柚木ゆぎ村の北、多摩川左岸に位置する。南東の二俣尾ふたまたお村境を平溝ひらみぞ川が流れ、山方寄りの鎌倉街道が軍畑いくさばた渡で多摩川を渡り、柚木村に通じる。青梅街道が通り、御嶽みたけ山への道者道に渡る万年まんねん橋が架けられていた。慶長三年(一五九八)検地帳(前欠・後欠、福島家文書・福田家文書)があり、田畑合高辻四四貫二二九文・本途四〇貫二六一文・出分三貫九六八文、屋敷高辻四貫三〇九文・本途二貫九一七文・出分一貫三九二文、納次第は綿二貫二七五文、上漆一九一束・中漆二四〇束・下漆二九五束二丸。田園簿に村名がみえ、田三石余・畑二三九石余で幕府領、ほかに紙舟役永一貫一文。寛文八年(一六六八)の多麻郡三田領沢井村下分検地帳(青梅市史)では上畑二町六反余・中畑四町四反余・下畑六町五反余、中田一反余・下田七反余で高四一五石余。上分と下分に分れたのは貞享三年(一六八六)ともいう。元禄郷帳でも高四一五石余。


沢井村
さわいむら

[現在地名]藤野町沢井

相模川支流沢井川の中流に位置し、北は佐野川さのがわ村、東南は吉野よしの村、西南小淵おぶち村と接する。永正一七年(一五二〇)三月二五日付旦那譲状(熊野那智大社文書)に「相州奥三保之事」として出る「日向六ケ村」中の「日野村」は、当村の小名日野ひのをさすのではないかと思われる。小田原衆所領役帳に「沢井村、敵知行、半所務」として、「四貫文 石井源左衛門、三貫三百文 落合、壱貫弐百文 中村隼人佑、此外、三貫五百文 大和守所務、以上拾弐貫文」とみえる。「敵」とは武田方のことである。酉(天正一三年か)三月一一日の某朱印状写(県史三)に「沢井」の年貢夫銭の員数に関することが記されている。

近世は初め幕府直轄領と一部井出源蔵領(寛永三年まで)、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領。前出の石井源左衛門家は、江戸時代にも源左衛門を襲名し、名主を務めている。


沢井村
さわいむら

[現在地名]石川町沢井

蛇行しながら北流するやしろ川西岸の丘陵にあり、東は山形やまがた村・外槙とまき村、南は白河郡下野出島しものでじま(現東村)。字東内打とうないうちにある天台宗安養あんよう寺の参道石段付近に、和泉式部産湯として使われたという清水があり、これが村名の由来となったとされる(石川郡誌)。「吾妻鏡」建久六年(一一九五)三月一〇日条によると、源頼朝による奈良東大寺供養の際の供奉人行列に石河大炊助とともに沢井太郎の名がみえ、元亨三年(一三二三)の北条貞時十三年忌供養記(円覚寺文書)では、石河沢井六郎入道と石河沢井小六郎がそれぞれ栗毛の馬一疋を献上している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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