河勾庄(読み)かわわのしよう

日本歴史地名大系 「河勾庄」の解説

河勾庄
かわわのしよう

天竜川河口両岸一帯を占めた京都仁和寺観音院末の頭陀ずだ寺領庄園。現浜松市南東部から竜洋りゆうよう町西部にかけての地に比定される。河匂庄・川勾庄・河曲庄ともみえる。嘉応三年(一一七一)二月日の池田庄立券状写(松尾大社文書)に、示として「壱所坤倉所南海際川勾庄巽」、脇示を打った場所として「壱本西池田伍坪蒲御厨与川勾庄境」「壱本西高木郷拾参坪畠川勾庄境」とみえる。また高木たかぎ(現竜洋町)草前くささき(現磐田市)の坪付に「川勾庄内二反」などの注記が散見され、同一の坪内の何割かが当庄に属し、両郷が池田いけだ庄と当庄の境目であった。同立券状写によれば池田庄立券の際に当庄と境相論があり、当庄は「長承官符」を提出している。立庄は長承年間(一一三二―三五)以前であったことが判明した。仁和寺の歴史から一〇世紀半ばには成立していたとも推定される(静岡県史)。池田庄立券に際して問題となったのは高木明神の所属で、当庄の庄官が同地を越えて池田庄内の田地を押取ろうとしたため相論となった。当庄の庄官によれば長承官符で当庄の東境は高木明神とされ、保元年中(一一五六―五九)にも長承官符に基づいて国務(知行国主)少納言入道(藤原通憲・信西)によって高木明神が東境とされたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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