河瀬秀治(読み)かわせ・ひではる

朝日日本歴史人物事典 「河瀬秀治」の解説

河瀬秀治

没年:昭和3.4.2(1928)
生年天保10.12.15(1840.1.19)
明治期の官僚,実業家丹後国舞鶴生まれ。旧宮津藩士。旧姓牛窪,号雲影。安政開港時から国事に奔走,明治維新に際し佐幕に傾く藩中で藩主勤王進言,藩を救ったという。新政府に登用され武蔵知県事,小菅・印旛・熊谷入間などの知県事・県令を歴任。群馬・入間両県に洋式製糸工場を興した。明治7(1874)年内務大丞兼勧業寮権頭,のちメルボルン博覧会開催に際して事務官長を命じられるが14年に退官以後は産業専門の新聞『中外商業新報』を創刊するなど実業界で活躍。またフェノロサ,岡倉天心らの日本美術の振興に協力,東京美術学校の設立にも助力した。<参考文献>斎藤一暁『河瀬秀治先生伝』

(井上定幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河瀬秀治」の解説

河瀬秀治 かわせ-ひではる

1840*-1928 明治-大正時代の官僚,実業家。
天保(てんぽう)10年12月15日生まれ。武蔵(むさし)知県事などを歴任。明治8年内務省博物館掛となり,内外の博覧会事業を推進した。のち「中外物価新報」(現「日本経済新聞」)を創刊するなど実業界で活躍。また岡倉天心らと日本美術の振興につくした。昭和3年4月2日死去。90歳。丹後(京都府)出身本姓は牛窪。号は雲影。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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