沼南町(読み)しようなんまち

日本歴史地名大系 「沼南町」の解説

沼南町
しようなんまち

面積:四一・九九平方キロ

県の北西部、手賀てが沼の南部に位置し、同沼の対岸北方は我孫子あびこ市、沼の西端に流入する大津おおつ川を挟んで西は柏市、東は金山かなやま落の谷を境に印旛いんば白井しろい町・印西いんざい市、南は鎌ヶ谷市・松戸市に接する。手賀沼と大津川・金山落から発達する多くの谷津が標高二〇―三〇メートルの下総台地を複雑に刻み、沼・谷津沿に水田が開け、台地上は林と畑地が多い。なお近世には町の南西部、高柳たかやなぎ地区の西・南には小金こがね牧のうちの中野なかの牧が広がっていた。地内には縄文時代中期の布瀬ふぜ貝塚、同時代後・晩期岩井いわい貝塚、三世紀後半の築造とみられる片山かたやまきたさく古墳群、古墳時代から奈良・平安時代の集落跡を検出した大井東山おおいひがしやま遺跡などがある。大井おおいを古代相馬そうま大井(和名抄)の遺称地として、一帯を同郷の郷域に比定する説がある。大治五年(一一三〇)(千葉)常重は相馬郡布施ふせ郷を伊勢皇大神宮に寄進、相馬御厨が成立する。中世の町域は同御厨に含まれていたと考えられ、うちいずみ村などはのちの相馬岡田氏の根本所領の一となった。戦国時代末期には小金城(現松戸市)城主高城氏の支配下に組込まれていったと考えられる。

近世の町域に成立した村は元禄郷帳では一八ヵ村、すべて相馬郡に属した。その後、各村地先の手賀沼を開発した村持添の新田や中野牧を開発した高柳新田などが成立した。これらの新田は高数石で無民家というものが多かったが、郷村帳類では一村として高付され、天保郷帳では二九ヵ村となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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