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手賀沼 てがぬま

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

手賀沼
てがぬま

千葉県北西部,利根川の南岸にある狭長な沼。面積 4.1km2,周囲 37km。最大水深 3.8m。利根川本流からの逆流により,堆積物が下総台地を流れる支流の谷の出口をふさいで生じた。近世以降しばしば洪水に見舞われ,沿岸の開発工事が進められてきたが,1954年国営干拓事業が完成,面積は4割減った。フナ,コイなどの漁獲がある。周辺は宅地造成が急速に進行している。印旛手賀県立自然公園の一部で,近郊緑地特別保全区。野鳥が多く,沼の近くに山階鳥類研究所がある。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

手賀沼

面積650ヘクタール。周囲38キロ。柏、我孫子、印西、白井など7市にわたり流域面積約1万4300ヘクタール。流域人口は約51万人。福島第一原発の事故を受けて県は13年9月、沼で釣りをする人たちにモツゴギンブナ、コイを放流・食用にしないよう警告している。

(2014-02-26 朝日新聞 朝刊 ちば首都圏 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

てが‐ぬま【手賀沼】

千葉県北西部、利根川南岸にある沼。江戸時代以来たびたび干拓されて縮小。

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百科事典マイペディアの解説

手賀沼【てがぬま】

千葉県北西部,利根川右岸の沼。標高3m,面積4.02km2,最深3.8m。下総(しもうさ)台地を刻む利根川支谷が本流の堆積物でふさがれてできた。12世紀には〈手下水海〉とみえる。
→関連項目我孫子[市]沼南[町]白井[市]白井[町]

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世界大百科事典 第2版の解説

てがぬま【手賀沼】

千葉県北西部の沼。東西の長さ約12km,幅約1km,面積6.5km2と細長く,最深部の水深約2m。東端から弁天川により利根川に排水する。古代には印旛(いんば)沼,霞ヶ浦に続く香取海(かとりのうみ)の入江であったが,利根川の堆積作用によってせき止められ,沼地となった。近世にはたびたび干拓が計画されたが,洪水によって破壊された。1946‐67年に国営干拓事業が行われ,土地改良が進んだ。印旛沼手賀沼県立自然公園に属し,釣りの名所でもあるが,最近,沼周辺の我孫子(あびこ)・柏両市などの人口増加によって生活用水の流入が続き,アオコ異常発生など沼の汚染が著しい。

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大辞林 第三版の解説

てがぬま【手賀沼】

千葉県北西部、利根川南岸にある沼。淡水魚に富む。江戸時代以来しばしば干拓が行われた。

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日本の地名がわかる事典の解説

〔千葉県〕手賀沼(てがぬま)


千葉県北西部、利根(とね)川下流右岸にある堰止湖(せきとめこ)。面積4.1km2。近世から干拓が繰り返され、1968年(昭和43)に完成した干拓事業で東半部は水田となった。生活・産業排水による汚染の進行で全国一の汚染湖となり、湖沼水質保全特別措置法の対象となった。カモ猟・釣り・ボート遊びができ、近くにゴルフ場・テニスコートなどがある。印旛(いんば)手賀県立自然公園に指定。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

手賀沼
てがぬま

千葉県北西部、利根(とね)川下流右岸にある湖沼。東西方向に細長く、周囲38キロメートル、面積6.5平方キロメートル、最深3.8メートル。近世初期に利根川が銚子(ちょうし)で太平洋に注ぐ流路に変えられたため逆流した土砂が堆積(たいせき)し、香取海(かとりうみ)の入口が埋められて沼となった。江戸時代より湖岸に沿って干拓が行われて新田(しんでん)集落が増えたが、たび重なる洪水の被害は大きかった。1946年(昭和21)食糧増産を目的として農林省が干拓を進め、1968年に完成して湖の東半部は完全に水田化され、周辺農家の経営規模は拡大した。明治以後、志賀直哉(しがなおや)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)などの文人が沼畔に住み、北の鎌倉とよばれたが、近年はJR常磐(じょうばん)線、成田線沿線の住宅地開発が著しい。そこで家庭雑排水が流入して湖の汚濁が進み、水質汚濁全国一の値を示すほどになってその浄化対策が図られており、湖沼水質保全特別措置法の対象となっている。一帯は県立印旛(いんば)手賀自然公園に指定され、マコモ、ヨシが茂り、コイ、フナも多く、釣りやボート遊び、散策に人が訪れる。[山村順次]

江戸時代の干拓

手賀沼は、江戸時代にしばしば干拓が計画され、4回にわたって大規模な普請が実施された。第1回は、幕府の代官細田時徳・近山安高が新利根(とね)川の開鑿(かいさく)・印旛(いんば)沼干拓などと関連づけ見立てたもので、江戸町人万屋治右衛門(よろずやじえもん)ら17名が請方(うけかた)となり開始した。1671年(寛文11)の請負(うけおい)証文によると、鍬下年季(くわしたねんき)7年、資金は自分持(もち)、大規模な普請を理由に伊佐部(いさぶ)野(手賀組新田が成立)、大瀬(おおせ)野の開発権の取得などが記されている。直後、資金難で離脱する町人が続出し、証人として参画していた海野屋作兵衛(さくべえ)らが奮闘し発作(ほっさく)新田など沼周辺の小規模新田が成立した。第2回は、幕府勘定所(かんじょうしょ)の新田方井沢為永(ためなが)、四川奉行(ぶぎょう)高田次左衛門(じざえもん)らが1727年(享保12)に公費で実施し、千間堤を築いて沼を上下に区分し、下沼の干拓に成功し新田方の支配下に置かれたが、のち洪水で千間堤が決壊し失敗。第3回は、1738年(元文3)に地元相島(あいじま)新田名主佐治兵衛(さじへえ)ら3名が頭取となり、武蔵(むさし)国忍(おし)領の根岸源右衛門(げんえもん)・江戸駿河屋権兵衛(するがやごんべえ)らの協力を得て実施。成功後の分け前は金主6割・頭取割・根岸と駿河屋2割であったが失敗に終わる。第4回は、幕府代官宮村高豊(たかとよ)の見立てで、幕府勘定所が公費で実施。印旛沼の干拓と連動させ、枝(えだ)利根川(現、将監(しょうげん)川)の負俵口(まけだわらぐち)を締め切り、手賀沼の水を長門(ながと)堀に流下させたが、洪水のため締切堤が決壊し失敗した。[大谷貞夫]

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