高柳新田(読み)たかやなぎしんでん

日本歴史地名大系 「高柳新田」の解説

高柳新田
たかやなぎしんでん

[現在地名]養老町大巻おおまき

安八あんぱち大牧おおまき新田の南、揖斐いび川右岸にある新田村南西小坪こつぼ新田。石津いしづ郡に属する。寛文一〇年(一六七〇)正悦・清太夫・三十郎の三人が協力して開発したという(養老郡志)元禄郷帳に村名がみえ、幕府領で高三七三石余。「新撰美濃志」でも幕府領。当村は低湿地で水腐などが起こり苦しんだ。明治二年(一八六九)の村明細帳によると田三四町六反余・畑二町七反余で、残らず水損所とある。同帳によると当村は揖斐川堤一千一九間、津屋つや川堤二四三間と接し、悪水吐内小堤八五六間余、悪水吐外小堤六六〇間があった。

高柳新田
たかやなぎしんでん

[現在地名]沼南町高柳新田・高南台こうなんだい、松戸市高柳新田

高柳村の西に位置し、同村が中野なかの牧の牧地七三町余を村請開発させて成立した畑地新田。開発は高柳村と中野牧の境の野馬堀のさらに牧側に新しい野馬堀を築いて行われ、享保一五年(一七三〇)幕府代官小宮山杢之進の検地を受け、一五〇石余が高入れされた。葛飾郡に属し、成立以後幕府領で幕末に至った(旧高旧領取調帳)。ただし下々畑三町余を除く六九町余が林畑(石盛二斗)で、高柳村福寿ふくじゆ院以下七一名が名請していたが、実質的な開墾はならなかった。これは牧内の野馬が水飲場や夏の日陰を求めて新田地に入り込んで荒らしたためで、享和三年(一八〇三)の村明細帳(島村家文書)では、新田地七三町余のうち六五町余は手余荒地となっていた。

高柳新田
たかやなぎしんでん

[現在地名]栗橋町高柳

高柳村との位置関係はつまびらかではなく、「風土記稿」によれば、「四方ノ地形犬牙シテ分チカタシ」とし、元和六年(一六二〇)の開発により高柳村より分村したという。田園簿に村名がみえ、田高三七石余・畑高一〇〇石余で、幕府領。領主変遷は高柳村と同様。元禄郷帳・天保郷帳では高一五〇石余であるが、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)旧高旧領取調帳などには記載がなく、幕末頃までに高柳村に含めて把握されることが多くなったものと思われる。

高柳新田
たかやなぎしんでん

[現在地名]松戸市高柳新田、東葛飾郡沼南しようなん町高柳新田・高南台こうなんだい

高柳村の西に位置し、享保期(一七一六―三六)小金こがね牧開発で成立した新田。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報