泉木津(読み)いずみきづ

日本歴史地名大系 「泉木津」の解説

泉木津
いずみきづ

現木津町大字木津・大字木津町きづまち付近にあった古代からの木津川の津。単に木津ともいい、史料により「和泉木津」「和木津」とも出る。「和名抄」に記す水泉いずみ郷の地にあたり、泉を冠するのは木津川を古くには泉川とよんだことに由縁する。

泉木津は木津川が西流から北流へと大きく流路を変える地点の南岸に位置し、木津川の流れ込んでいた旧巨椋おぐら池を通じて宇治川・桂川(大堰川)淀川の諸川と結びつき、琵琶湖の大津おおつ(現滋賀県大津市)・宇治津・岡屋おかのや(現宇治市)・淀津(現京都市伏見区)梅津うめづ(現京都市右京区)保津ほづ(現亀岡市)、さらには丹波山国やまぐに(現北桑田郡京北町)や大阪湾・瀬戸内と結ばれていた。また平城京とは奈良山越(山背道)至近の距離にある。

古代の史料では南都の寺院関係文書にその名が多くみえるが、藤原ふじわら(跡地は現奈良県橿原市)・平城京造営材の調達にも中心的役割を果した。「万葉集」巻一の藤原宮の役民の作る歌に「泉の河に 持ち越せる真木の嬬手を 百足らず筏に作り 泝すらむ」とあるのはそれをうかがわせ、平城宮出土木簡に「泉□材」と記したものがある。

泉木津には奈良時代から南都諸大寺の木屋が設けられていたが、それは寛平八年(八九六)四月二日の官符(「類聚三代格」所収)にみられるように、現笠置かさぎ町・南山城みなみやましろ村一帯から伊賀にかけての山が、古くからこれら諸大寺の杣山となっていたことによる。なお安元元年(一一七五)一二月日付東大寺衆徒解案(東大寺文書)は、良弁が笠置辺りの木津川の磐石を取り除いたことにより、笠置より上流からの流筏が可能になったらしいことを記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の泉木津の言及

【木津[町]】より

…【松原 宏】
[歴史]
 木津川の南岸に臨み,古代において奈良へ運ばれる木材は,宇治津から巨椋(おぐら)池を経て木津川をさかのぼり,木津で陸揚げされた。木津川は古代には泉河とよばれ,木津は泉津,泉木津と称され,東大寺をはじめ奈良の寺院はこの地に木屋を設けた。北岸には行基によって泉橋寺が建てられ,橋が架けられたが,《三代実録》には,川の流れが急なため橋梁が破壊されやすく,洪水のたびに通行が不能となったと記している。…

【木津川】より

…古くは泉河と呼ばれて歌枕となり,また淀川水運の重要な幹線であった。奈良時代には泉木津に平城京諸大寺の木屋が設けられて木材や貨物輸送の基地となり,恭仁(くに)京が木津川の両岸(現在の加茂町例幣付近)にまたがって建設された。江戸時代には木津,吐師(はぜ),加茂,笠置が河港として栄え,伏見,淀,大坂,尼崎などと舟運で連絡していた。…

【木守】より

…奈良・平安時代,大寺社や権門勢家の邸宅などの造営,修理がやすむことなく続けられたが,それには材木の集積が不可欠であった。そのような材木の集積場所として,泉木津(現,京都府相楽郡木津町)など各地の交通至便な地点には,各権門,大寺社などの木屋所が設定され,そこに木守が置かれた。例えば泉木津に置かれた東大寺の木屋所は,畠地4町の敷地であったが,1160年(永暦1)には,東大寺の木守3名と15人の寄人(よりうど)が居住し,寺役を務めており,その上に木屋預(きやあずかり)が置かれていたことがわかる。…

※「泉木津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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