日本大百科全書(ニッポニカ) 「津田流」の意味・わかりやすい解説
津田流
つだりゅう
近世砲術の一流派。流祖は紀州那賀(なが)郡小倉の人、津田監物算長(つだけんもつかずなが)(?―1567)。俗に本邦砲術の開基という。算長は楠正成(くすのきまさしげ)4代の孫で河内(かわち)国交野(かたの)郡津田の城主津田周防守(すおうのかみ)正信(まさのぶ)の後裔(こうえい)といい、根来寺(ねごろじ)の衆徒行人方(ぎょうにんかた)の頭役(とうやく)四坊の一つ、杉之坊(すぎのぼう)の家元として、僧兵らの指導的立場にあった。同家譜などの伝えるところによれば、彼は中国や琉球(りゅうきゅう)方面の密貿易にも活躍したとみられ、享禄(きょうろく)年間(1528~32)中国を目ざしての航行中に遭難し、種子島(たねがしま)に漂着、この地に滞留すること10余年、1543年(天文12)ポルトガル船の漂着、鉄砲の伝来という事件に巡り会い、蛮商皿伊旦崙(ベイタロ)(屏太郎)の指導で、火縄銃の使用法および製造法の奥秘を究めたという。翌44年この鉄砲を携行して帰国、ただちに杉之坊に入り、門前町に住む堺(さかい)出身の刀工芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)を督励して、その模作に成功し、行人衆の間にその使用法の普及・研究を図った。こうして永禄(えいろく)年間(1558~70)に入ると、わが国最初の砲術書がつくられるようになり、算長の名は京都にも聞こえ、将軍足利義晴(あしかがよしはる)に召し出されて鉄砲術を披露し、従(じゅ)五位下小監物(こけんもつ)に叙せられる栄誉に浴した。算長に2子あり、長子を算正(かずまさ)、次子を明算(めいさん)(算長の弟とする説もある)といい、いずれも父の芸を継いで鉄砲術に優れた。なかでも明算は鉄砲の道に精進してついに玄妙に達し、後年自由斎と号した。彼はまた兄の嫡子重長(しげなが)の成長を待ってその奥儀を伝えたが、この門流を自由斎流という。
[渡邉一郎]