大隅半島の南方約三五キロの海上に浮ぶ。大隅諸島の一島で、面積は約四四六平方キロ、県下では奄美大島、屋久島に次いで広い。
島の基盤をなすのは古第三紀の始新世―漸新世に形成された礫岩と砂岩、砂岩・頁岩の互層(熊毛層群とよばれる)などからなり、その分布は島の北部で広くみられる。南東部では、これを覆うようなかたちで新第三紀中新世に堆積した茎永層群の砂岩・泥岩や礫岩などが重なっている。島の中央部や北部の谷沿いの所には、さらに新しい増田層とよばれる砂岩やシルト岩の堆積物がみられ、島の複雑な誕生過程を示している。年降水量は西之表市では二二三七ミリ、南種子町中央部では二八六九・五ミリと南北で大きな開きがあるが、気温はほぼ同じで年平均摂氏一六度強というところである。西之表市湊のマングローブは自生群落の北端をなすものとされている。島名については昔日向国より
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鹿児島県に属し、大隅(おおすみ)半島の南約35キロメートルの付近から、ほぼ南へ向かって約58キロメートルにわたり細長く延びる島。幅は広い所でも7キロメートル足らずである。島の南部の西約20キロメートルに、ほぼ円形の屋久島(やくしま)東端がある。この2島のほか、口永良部(くちのえらぶ)島、馬毛(まげ)島をあわせて大隅諸島とよぶ。屋久島が円形に近く、2000メートル近い高山からなるのに対し、種子島は細長く、最高点も282メートルと低平で、丘陵ないし台地状の地形をなす。島の面積は444.99平方キロメートルで屋久島より約60平方キロメートルほど少ない。行政区域は北部より西之表市(にしのおもてし)、熊毛(くまげ)郡中種子町(なかたねちょう)、南種子町の1市2町。地質は、古第三紀に堆積(たいせき)した熊毛層群(砂岩・泥岩などの互層)を基盤岩とし、その上部に新第三紀の茎永(くきなが)層群や、さらに新しい増田(ますだ)層とよばれる泥・砂・礫(れき)岩などの互層で覆われている。ほとんど全域が堆積岩で構成され、この点でも隣の屋久島とは著しく対照的である。島の中央部、中種子町付近では、その幅が狭まり、西側海岸は長浜とよばれる約11キロメートルに及ぶ直線的な砂浜海岸、東側は岩礁の多い海岸となって南部の南種子町へと続く。月平均気温は10℃を下ることはなく、鹿児島市よりはるかに温暖である。また年降水量は約2700ミリメートルで、4000ミリメートルを超える屋久島と比べると少ない。これらの、地形・地質・気候などの自然条件は、この島の植生や農作物などを特色づけている。海岸部を中心に亜熱帯植物が茂り、農作物はサトウキビ、サツマイモ、タバコ、ラッカセイ、キヌサヤエンドウなどの畑作物、ポンカン、タンカンなどの果樹栽培も盛んである。漁業は沿岸漁業が主体で、馬毛島付近でのトビウオ、イセエビ、トコブシなどの水揚げがある。
古代から中世にかけて、種子島は「多褹(ね)嶋」と書かれたり、「多禰嶋」と表示された。当時は多禰国の一部であったが、のちに大隅国に属し、鎌倉時代初期に種子島家の祖先平信基(のぶもと)が南海12島の支配を命じられて以来、江戸時代の終わりまで種子島家が島を支配した。1543年(天文12)、島の南端門倉岬(かどくらみさき)にポルトガル人が鉄砲を伝えた。これがいわゆる「種子島」とよばれた火縄銃である。鉄砲伝来によって、戦国時代以後の戦術が大きく変わったことはよく知られている。1889年(明治22)町村制施行によって、それまでの16か村が北種子、中種子、南種子の3村となった。北種子村は1926年(昭和1)に町制施行して西之表町に改称、1958年に市制を施(し)いた。また中種子は1940年に、南種子は1956年に町制施行。1969年には、門倉岬から約8キロメートル離れた南東端の茎永に、宇宙開発事業団(現、宇宙航空研究開発機構)による種子島宇宙センターが建設され、大隅半島の内之浦と並び宇宙開発の拠点となっている。以上のような自然的、歴史的背景をもち、また先端技術の粋(すい)を集めた宇宙開発のこの地を、観光で訪れる人々も増加している。西之表港、新種子島空港、島を縦断する国道58号など交通・運輸施設も整えられている。鉄砲伝来の記念碑は、門倉岬および西之表市にあり、また同市には「日本甘藷栽培初地之碑(にほんかんしょさいばいしょちのひ)」もある。鹿児島との間には船と航空路がある。屋久島(宮之浦)とも船で結ばれている。島の3市町の総人口3万2467(2009)。
[塚田公彦]
日本製火縄銃の俗称。1543年(天文12)に大隅(おおすみ)国(鹿児島県)種子島に漂着したポルトガル人によって初めて日本にもたらされた火縄銃は、最初の製銃地となった種子島の名とともに全国に広まった。
[小橋良夫]
大隅諸島の一島。鹿児島県に属し,西之表市と熊毛郡中種子(なかたね),南種子の2町に分かれる。面積446km2,人口3万1865(2010)。南北約60km,東西5~10kmで南北に細長く,最高点は282mで低平である。第三紀層を切る海食台地と,それをとりまく数段の海岸段丘からなり,平野に乏しい。年平均気温19℃ぐらいで温暖である。水田は少ないが,サトウキビが広く栽培されて島の中心産業になっているほか,ポンカン,タンカンなどのかんきつ類,タバコ,早期出荷のオランダエンドウの栽培,畜産が行われる。近海には魚種が豊富で,トビウオ,サバ,カツオの漁獲が特に多い。西海岸には砂鉄を多く含む砂丘が発達し,かつてはたたら製鉄も行われた。また江戸時代には能野(よきの)焼が作られた。南端の門倉崎は西に種子島海峡をへだてて屋久島を,東に前の浜をのぞむ景勝の地で,竹崎にはロケット基地の種子島宇宙センターがある。島の中心は北西部の西之表市街で,鹿児島港から1.5~2時間で定期船が通じる。中種子町には種子島空港(2006年旧空港の北方に新種子島空港が開港)があり鹿児島空港と約30分で結ばれている。
執筆者:服部 信彦
九州本土と南の島々とを結ぶ〈海上の道〉にあたり,古くから開けた地で,弥生中~後期の墓地遺跡,広田遺跡(南種子町)をはじめ多くの遺跡が散在する。古代は多褹,多禰の字が用いられ,677年(天武6)に初めてその名が見える(《日本書紀》)。709年(和銅2)には薩摩,多禰と並び記され(《続日本紀》),律令制度上の一国に準じる扱いを受け,島司,島分寺が置かれた。日本最南端の国で熊毛,益救(やく),能満(のま),馭謨(ごむ)4郡があり,隣の屋久島を含んでいた。中国との交通上重視されたためであったが,のち824年(天長1)には多禰国は廃止され,大隅国熊毛・馭謨2郡となった。12世紀には島津荘に属し,田500余町歩。鎌倉時代に入って伊作平氏有道・有平が領有したが,のち地頭名越(なごえ)氏の代官肥後氏が勢力を伸ばした。南北朝時代以降島主となる種子島氏はその系統であるが,《種子島家譜》は平家落人の子孫と伝える。1543年(天文12)にはポルトガル船が門倉崎に漂着して鉄砲を伝来し,その後国産銃(種子島銃)の製作に成功した。戦国期にはまた種子島氏と禰寝(ねじめ)氏との抗争が続き,種子島氏は戦国大名島津氏と結んだが,1595年(文禄4)島津以久(もちひさ)領となった。99年(慶長4)種子島氏が回復,以後江戸末期までその私領であり,幕末には16ヵ村があった。
執筆者:三木 靖
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
古くは多禰島・多島とも。鹿児島県大隅諸島の一つ。面積445km2。奈良時代には多禰島(国)の一部,平安初期に大隅国に編入。鎌倉時代に島津荘大隅方惣地頭名越氏の代官肥後氏が入り,北条氏滅亡後,島主化して種子島氏を称する。戦国期には島津方に属し,近世種子島氏の私領。北流する黒潮のコース上に位置し,古来海上交通の要衝で,外国船の漂着も多かった。1543年(天文12)門倉(かどくら)岬に漂来したポルトガル人により鉄砲と火薬の製法が伝来した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…鹿児島県熊毛郡,種子島中央部の町。人口1万0027(1995)。…
※「種子島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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