日本歴史地名大系 「洲本城下」の解説 洲本城下すもとじようか 兵庫県:洲本市洲本城下三熊(みくま)山北麓、洲本川河口部に建設された、阿波徳島藩洲本城の城下町。江戸時代には須本(すもと)(洲本)府と称され、淡路島内の村浦から当城下へ行くことは出府といわれた。寛永七年(一六三〇)徳島藩は幕府の認可を受け、由良(ゆら)にあった政庁、寺院、武家屋敷などを移転させ、須本(洲本)の地に計画的に配置した(「須本御城普請之儀ニ付御奉書并添状」「淡州御城之義ニ付御老中より之書状―右御控并中条次太夫言上書添」蜂須賀家文書)。城下はほぼ東流する洲本川と北流する同川支流千草(ちくさ)川を外堀とし、中央に南北の中(なか)堀を掘削し、中堀より西を外(そと)町、東を内(うち)町とした。外町はほぼ津田(つだ)村のうちに町立てされた。外部から城下への出入口はすべて外町からとし、千草川河岸の南西に上物部(かみものべ)口、西に下物部口、北の洲本川河岸に塩屋(しおや)口が設けられた。なお明和年間(一七六四―七二)以後はもう一ヵ所塩屋口の西方に宇山(うやま)口が構えられた(安永年間「城下図」淡路文化史料館蔵)。上物部口以外の各出入口はいずれも河川を渡渉するので、橋が必要であったが、防衛上貞享―元禄(一六八四―一七〇四)の頃まで架橋させなかった。各出入口の内側には枡形か番所が置かれ、出入りを監視した。武家地では、三熊山北麓に置かれた居館(御城、下の城)周辺の御門(ごもん)筋・八幡宮前(はちまんぐうまえ)・千石(せんごく)丁には高取という上級武士の屋敷が並び、外町の周縁部溝(みぞ)ノ丁・袋(ふくろ)町・鉄砲(てつぽう)町・八軒屋(はちけんや)・下代(げだい)丁などには下級武士や鉄砲の者の役宅が配置された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by