日本大百科全書(ニッポニカ) 「さんか」の意味・わかりやすい解説
さんか
さんか / 山窩
農耕を営まず、住居を定めず、山間を生活の場として移動する人々をいう。山家、山稼、散家などとも書く。四国高松地方で三界に家なき者のことをサンカまたはサンガイというのと同じだとか、ロマ(かつてはジプシーとよばれた)の故郷といわれる西インドのサンガタの住民サンガニに語源を発するとかさまざまにいわれるが、その語源に定説はない。一般にはさんかとよぶほか、ポン、オゲ、ノアイ、セブリ、箕(み)作りなどともいい、さんかがその仲間をよぶときは、関東ではナデシ、関西ではショケンシ、ケンシ、ケンタなどという。全国的に分布するが、東北地方以北にはいないといわれる。
[倉石忠彦]
起源
さんかの起源については種々の説があってさだかでない。しかし、さんか自身では、出雲(いずも)の国津神(くにつかみ)をその祖とするなどいくつかの伝承をもち、家系を誇り、先祖の功績を好んで述べたて、家筋に対する強い誇りをもっている。
[倉石忠彦]
組織
さんかはテントを持って漂泊するセブリと、一般社会に定住しているイツキとに分けられるが、古くは定住せず、また、親分をもたず、だれからも支配や干渉をされない独立・自由の生活を好むといわれる。しかし一方、全国のさんかを支配する組織の存在も伝えられている。すなわち、最高権力者であるアヤタチを頂点としてミスカシ、ツキサキ(シ)などの中央支配者がおり、各地域にはクズシリ、クズコなどの支配者が置かれた。そして、そのもとに各地域セブリをムレコが統率したという。彼らは仲間相互の信義と義理とを道徳の第一とするとともに、外部に対しては厳しい秘密主義をとっていた。
[倉石忠彦]
生業
生業のおもなものは竹細工であった。箕作り、箕直し、ざる作り、ささら作り、茶筅(ちゃせん)作り、茶杓(ちゃしゃく)作り、釜敷(かましき)作り、気込め(櫃(ひつ)入れ)作り、矢こぎ・羅宇(らう)作り、簀子(すのこ)作り、練子(ねりこ)踏みなどを行い、近在の町や村に売り歩いた。これをトフタベ(十二部)などといった。このほか、俵ころばし、小法師(こぼじ)、四つ竹、うずめ、さかき、てるつく、獅子(しし)、たまい、猿舞い、猿女などの遊芸や、山守(やも)り、池番(いけす)、川番人(かもり)、田畑番人(のもり)、係船の番人(うきす)など番小屋にあたる仕事も行った。また、竿屋(さおし)、鋳掛屋(ふいご)、研屋(するど)、洋傘直し(こうもり)、羅宇屋(すいたけ)、鋸目立(めあけ)、蝮捕(むしよけ)、呪い予言(とべない)など移動しながら生計をたてる仕事も行ったとされる。こうした自然の恵みを活用し収入の道として流れ歩く生活は、一見原始的であるともいえるが、彼らはむしろ農耕に従事しないことを誇りにさえしていた。
[倉石忠彦]
生活・習俗
移動生活を行うセブリさんかは、1か所には数日、短ければ一夜で食器類を携えて次の場所に移動するため、仮小屋とかテントを住まいとし、その住居はセブリとよばれ、さんかの呼び名ともなっている。テントは、山裾(やますそ)や河原などの水の便のよい所に南向きに張る。テントの中央には炉を切り、テンジン(天人)とよぶ自在鉤(かぎ)を下げる。この自在鉤の使用は、ウメガイとよぶ短刀の使用とともにさんかの証(あかし)とされた。テント住まいのほか、洞穴を利用したり簡単な小屋掛けをするものもあった。何を生業とするかによって住居の形態は違い、小屋もイヌノボリ、ボウロク、ヨホウなどとよぶものがある。麦やうどんを主食とするとともに、川魚、小鳥、山菜とくに自然薯(じねんじょ)などを食べた。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯をつくり入浴する方法や、地面を焼いてその余熱で暖をとるなどの古い習俗も伝えている。また、出産前後の儀礼がほとんどなく、血忌みに対する観念が希薄なこともその特色といえる。さんかは多くの隠語を使い、それによって仲間との連絡を密にすることができる。近年は定住という形で一般社会への溶け込みが激しく、その数を明確に把握することはできないが、1万余人とも数十万人ともいわれる。
[倉石忠彦]
『『イタカ及びサンカ』(『定本柳田国男集4』所収・1963・筑摩書房)』▽『三角寛著『サンカの社会』(1965・朝日新聞社)』▽『田中勝也著『サンカ研究』(1982・翠楊社)』▽『後藤興善著『又鬼と山窩』(1989・批評社)』▽『三角寛著『三角寛サンカ選集 全7巻』(2000~01・現代書館)』