流川村(読み)ながれかわむら

日本歴史地名大系 「流川村」の解説

流川村
ながれかわむら

[現在地名]浮羽町流川

溝尻みぞしり村の南、耳納みのう山地山麓から巨瀬こせ川左岸の扇状地を占める。正保四年(一六四七)の大小道之帳によると「流川村北ノ大道わかれ」から妹川いもがわ村まで一里二一町。慶長一〇年(一六〇五)三月二三日の田中吉政知行宛行状(歴世古文書)に村名がみえ、当村など五村のうち九八〇石を樋口越前に与えている。本高は三二四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高六二〇石・役高七二八石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高七五九石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田四二町五反余・開田四反余・畑田五町六反余・畑一二町四反余・居屋敷七反余。


流川村
ながれかわむら

[現在地名]吉見町南吉見みなみよしみ

久米田くめだ村の南西に位置し、村域は吉見丘陵の南端部、およびその裾にあたる市野川いちのかわ低地に展開する。市野川を隔てて南は比企郡柏崎かしわざき(現東松山市)、西は同郡松山町(現同上)、北は土丸つちまる村。松山町と足立郡鴻巣宿を結ぶ往還が通る。「風土記稿」によると当村は「元来此所ハ松山城附ニテ落城ノ後十一年ヲ経テ草創」されたという。羽黒はぐろ山に古墳時代後期の円墳があり、また地内では文保元年(一三一七)から大永六年(一五二六)に至る板碑一〇基が確認されている。


流川村
ながれかわむら

[現在地名]七城町流川

岡田おかだ村の西にあり、南北に細長い村。北側は台地で、南側の迫間はざま川沿いの水田の一画に京ノ坪の地名が残る。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に「流河村」とみえ、田一四町四反五畝余・畠一〇町四反一畝余、分米二四五石七斗余とある。深川手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑に高三〇二石五斗余、田一二町二反一畝・畑三六町七反五畝余、竈数二一・人数九四、駄馬二七、氏神熊野宮と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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