海北友雪(読み)かいほうゆうせつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海北友雪」の意味・わかりやすい解説

海北友雪
かいほうゆうせつ

[生]慶長3(1598).京都
[没]延宝5(1677).9.3. 京都
江戸時代初期の画家。名は道暉,友雪は字。海北友松嫡子。父の十分な薫陶を受けられず,前半生は絵屋の小谷忠左衛門として過す。寛永年間 (1624~44) ,春日局の助力を得て徳川家光にも引見され,海北の名を再興。その広い画域や,『一の谷合戦図屏風』 (埼玉県立博物館) にみる斬新な意匠感覚は,絵屋の経験によると思われる。妙心寺麟祥院客殿画が代表作。『雲竜図襖』は友松風に描かれているが,友松画の気迫には遠く及ばない。晩年は狩野派絵師とともに,内裏諸建築の障屏画制作にたずさわった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「海北友雪」の解説

海北友雪 かいほう-ゆうせつ

1598-1677 江戸時代前期の画家。
慶長3年生まれ。海北友松の長男。父の跡をついで海北家を再興。後年画風には狩野派の影響が色こい。朝廷御用,将軍家御用をつとめ,明暦・寛文・延宝の時代に造営された京都御所障壁画をえがいた。延宝5年9月3日死去。80歳。京都出身。名は道暉。通称は忠左衛門。作品に「雲竜図」など。

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世界大百科事典(旧版)内の海北友雪の言及

【海北友松】より

…桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江浅井家の重臣海北善右衛門尉綱親の子で幼時に出家し,東福寺で修禅。絵を狩野派に習った。1573年(天正1)織田信長の浅井長政攻略による海北家滅亡後は,武門再興を志して還俗。画事よりは弓馬の道を積極的に学んだらしい。豊臣秀吉の部将亀井茲矩は武道の師・画事の後援者であり,明智光秀の家老斎藤利三(?‐1582),真如堂東陽坊長盛(1515‐98)らは風流の友。里村紹巴は連歌の師で,五山の禅僧との交友も深かった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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