海北友雪(読み)かいほう・ゆうせつ

朝日日本歴史人物事典 「海北友雪」の解説

海北友雪

没年延宝5.9.3(1677.9.29)
生年:慶長3(1598)
江戸初期の画家海北友松 の子とされるが,養子の可能性もある。名は道暉,友雪と号す。父の死後しばらくは絵屋(特別注文の絵画だけでなく大量生産の仕込絵制作やより工芸的な仕事もした町絵師)の小谷忠左衛門として生計を立てたが,友松が一時世話をした春日局推挙により,徳川家光から江戸屋敷を拝領,その用命を受けることとなった。海北姓を名乗るのはそのころからと推定される。以後,明暦・寛文・延宝期の内裏障壁画制作に参加,後水尾上皇などの宮廷御用も勤め,法橋にも叙せられた。作風は軽妙・温雅で機知的趣向を凝らしたものも少なくない。友松よりもやまと絵や江戸狩野様式からの影響が強く認められる。代表作に妙心寺麟祥院(春日局の菩提寺)「雲竜図襖絵」,「祇園祭礼図屏風」(京都・八幡山保存会蔵),「厳島図屏風」(個人蔵)など。<参考文献>『時慶卿記』,山根有三「絵屋について」(『美術史』48号)

(川本桂子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海北友雪」の意味・わかりやすい解説

海北友雪
かいほうゆうせつ

[生]慶長3(1598).京都
[没]延宝5(1677).9.3. 京都
江戸時代初期の画家。名は道暉,友雪は字。海北友松嫡子。父の十分な薫陶を受けられず,前半生は絵屋の小谷忠左衛門として過す。寛永年間 (1624~44) ,春日局の助力を得て徳川家光にも引見され,海北の名を再興。その広い画域や,『一の谷合戦図屏風』 (埼玉県立博物館) にみる斬新な意匠感覚は,絵屋の経験によると思われる。妙心寺麟祥院客殿画が代表作。『雲竜図襖』は友松風に描かれているが,友松画の気迫には遠く及ばない。晩年は狩野派の絵師とともに,内裏諸建築の障屏画制作にたずさわった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「海北友雪」の解説

海北友雪 かいほう-ゆうせつ

1598-1677 江戸時代前期の画家。
慶長3年生まれ。海北友松の長男。父の跡をついで海北家を再興。後年の画風には狩野派の影響が色こい。朝廷御用,将軍家御用をつとめ,明暦・寛文・延宝の時代に造営された京都御所の障壁画をえがいた。延宝5年9月3日死去。80歳。京都出身。名は道暉。通称は忠左衛門。作品に「雲竜図」など。

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世界大百科事典(旧版)内の海北友雪の言及

【海北友松】より

…桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江浅井家の重臣海北善右衛門尉綱親の子で幼時に出家し,東福寺で修禅。絵を狩野派に習った。1573年(天正1)織田信長の浅井長政攻略による海北家滅亡後は,武門再興を志して還俗。画事よりは弓馬の道を積極的に学んだらしい。豊臣秀吉の部将亀井茲矩は武道の師・画事の後援者であり,明智光秀の家老斎藤利三(?‐1582),真如堂東陽坊長盛(1515‐98)らは風流の友。里村紹巴は連歌の師で,五山の禅僧との交友も深かった。…

※「海北友雪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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