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三宝院 さんぼういん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三宝院
さんぼういん

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山醍醐寺子院。永久3 (1115) 年醍醐寺 14世勝覚によって開創され,鳥羽天皇御願寺となった。たびたび焼失したり,移築されたりしたが,豊臣秀吉が殿堂を修理し再興した。建築,庭園とも桃山時代を代表するもので,唐門表書院国宝に指定され,俵屋宗達の『舞楽図』,義演の『義演准后日記』などを蔵する。

三宝院
さんぼういん

和歌山県高野町にある高野山真言宗の別格本山。本尊は木造北面大師。空海母親慈尊院 (→女人高野 ) 内にこの寺を建てたのが起源とされ,旧暦3月 21日の正御影供で供えられる「爪剥 (つまむき) の甘酒」は空海の母親がみずからの爪で栗や米の皮をむいて酒をつくり空海に送ったという伝承に由来するが,別の記録には法然の建立とある。国宝に指定されている奈良時代の『不空羂索神変真言経』 (18巻) ほか,平安時代後期の『文鏡秘府論』 (6帖) ,鎌倉時代の『五行大義巻第五』 (1巻) ,『白氏文書巻三残巻』 (1巻) などの重要文化財を伝える。

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世界大百科事典 第2版の解説

さんぼういん【三宝院】

京都市伏見区にある醍醐寺の子院。修験道当山派の本山でもあり,室町時代以降醍醐寺全山の中心として重んぜられた。1115年(永久3)左大臣源俊房の子で醍醐寺第14代座主となった勝覚が開いた。はじめは灌頂院といったが,定賢,義範,範俊3師の法流を一身に集めた勝覚が,醍醐寺の法門の興隆を念じ,三法にちなんで三宝院と改めた。創建当時は,下醍醐寺西大門内側の無量光院に対する一画を占め,本堂,礼堂,寝殿,護摩堂以下諸堂があり,43年(康治2)には鳥羽上皇の御願所となった。

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世界大百科事典内の三宝院の言及

【醍醐寺】より

…平安時代末には白河上皇の帰依を受けて勝覚,勝賢らが活動し,鎌倉時代の初めには重源が宋版一切経を施入するなど,仏教の新しい動きも受けいれ,深賢,親快らの学僧を出した。大寺院となった上下の醍醐寺には,三宝院,報恩院をはじめ多数の塔頭(たつちゆう)があったが,室町時代初頭に三宝院門跡で座主となった賢俊,満済は,足利氏の厚い帰依を受けて寺勢の発展に尽くした。その後,応仁の乱の兵火で伽藍のほとんどを焼失,寺領も失ったが,近世初頭の座主として名高い義演が豊臣秀吉の援助によって三宝院を再興し,荒廃していた境内を復興した。…

【醍醐の花見】より

…1598年(慶長3)3月15日,京都の醍醐寺三宝院で豊臣秀吉が催した花見の宴。秀吉は吉野など各地に花を見,三宝院にも何度か足を運んでいるが,このときの花見はとくに豪華で,この年8月に秀吉が病死したため,その最後の豪遊として有名である。…

【当山派】より

…一﨟の大宿は舒明天皇の勅印,二﨟の二宿は役行者(えんのぎようじや)の霊印というものを相伝し,入峰の際峰中小笹において官職補任状の実名の下に押してこれを許した。 慶長年中(1596‐1615),本山派との間に袈裟争いが起きたのを機に,当山先達衆は派祖聖宝の開創になる醍醐寺三宝院の義演准后にその折衝方を依頼し,棟梁になることを願った。1613年(慶長18)徳川家康は,修験道は筋目によって入峰し,諸役など当山本山互いに混乱あってはならないと裁断したが,当山方に対しては三宝院を通じて発令されている。…

※「三宝院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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