室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。元信の専門画家としての自由さは,法華宗徒でありながら対立関係にあった浄土真宗の石山本願寺での制作にあたったことによく示されており,武家だけでなく,宮廷・公家や町衆の間にも勢力を伸ばしていった。時の実力者にいち早く接近し,需要層の拡大に素早く対応したのである。元信は山水,人物,花鳥のあらゆる題材を手がけたが,とくに花鳥画では後の基本的様式となる真体著色,行体淡彩,金地著色の3種のスタイルを生み出している。画壇における狩野派の地位は,元信の孫の永徳によってさらに高められた。彼がわずか24歳で父松栄とともにあたった大徳寺聚光院障壁画では,室中の《四季花鳥図》で力感あふれる巨木を画面いっぱいに描いて桃山絵画の幕を開いた。この〈大画〉表現は,織田信長に認められ,1576年(天正4)からの安土城建設に天下一の画家として採用され,その多くの障壁画を子の光信とともに描いた。信長の没後,永徳は豊臣秀吉に仕えて大坂城,聚楽第,御所などの障壁画を次々に手がけた。狩野派は,元信以来桃山期に最も流行する花鳥画と風俗画に積極的に取り組み,花鳥画では永徳の巨木による大画様式が当時の基本的構成法となって,狩野派のみならず長谷川派や海北友松などの他流派にも影響を与えた。また,風俗画は土佐派などやまと絵の中で生まれたものであるが,それを発展させたのは狩野派であり,秀頼(元信の次男,生没年不詳)の《高雄観楓図屛風》や長信(永徳の弟,1577-1654)の《花下遊楽図屛風》をはじめ,桃山期の代表作を残している。
90年の永徳没後は,豊臣から徳川への政権交替期にあたり,狩野派にとっても大きな転換期であった。永徳の後継者として,弟の宗秀,長男の光信,次男の孝信や門弟で養子となった山楽の名があげられるが,いずれも時代の流れに従って永徳の大画様式を新しい方向へ進めている。光信は園城寺勧学院客殿画に代表されるやまと絵の優しさを加えた,奥行きのある繊細な画面を生み,山楽は大覚寺障壁画に見るように,対象の大きさは残しながらも装飾的な面を強くしている。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦を境にして,豊臣家に代わって徳川家が実権を握る。その徳川家の用命を受けるようになったのは狩野宗家を継いだ光信である。03年に京都二条城内の秀忠の殿舎で襖絵を描き,06年と08年の2度にわたって江戸に下って仕事をし,08年に帰洛の途上桑名で没したという。このとき光信の子貞信(1597-1623)はわずかに12歳であり,年長の長信や孝信などが力を結集して宗家を盛り立てていった。14年の名古屋城障壁画は貞信を中心として,孝信,長信,甚之丞(宗秀の子),興以(光信の門人)が参加している。孝信(?-1618)は宮廷画家となり,13年の内裏造営にあたって《賢聖障子》を描き,仁和寺に現存している。一方,山楽は秀吉没後も豊臣家に仕え,狩野家のほとんどが江戸に移っても京都に残った。その家系は山雪,永納以下幕末まで続き,装飾的な独特の表現を受け継いで,京狩野と呼ばれる。
15年(元和1)大坂の陣の当時,徳川家と関係を持ったのは孝信の長男の探幽であった。彼は11歳で父に伴われて徳川家康に拝謁し,17年に16歳で徳川幕府の御用絵師となった。翌18年に孝信が没すると弟で当時12歳の尚信に父の跡を継がせ,さらに23年に宗家の貞信が跡継ぎのないままに没すると,末弟の安信(1613-85)を貞信の養子にして宗家を継がせた。こうして狩野家の中枢を探幽3兄弟が占めることになった。26年(寛永3)の二条城や34年の名古屋城上洛殿の障壁画は,探幽が尚信,安信など一門を率いて制作にあたったもので,画風も探幽の様式に統一されるなど,探幽を中心とした体制が作られていった。探幽は21年に幕府から鍛冶橋門外に屋敷を拝領したので,後に鍛冶橋狩野家と呼ばれた。尚信は30年に竹川町に屋敷を拝領し,子の常信のときに木挽町に移ったので木挽町狩野家と呼ばれ,宗家の安信は寛永年間(1624-44)中橋狩野家をひらいた。ここに狩野家の中心は江戸に移り,山楽系の京狩野に対して江戸狩野と呼ばれる。この中では木挽町家が江戸時代を通じて栄えたが,この3家に常信の次男の岑信(1662-1708)が分家した浜町狩野家を加えた4家が,後に奥絵師として幕府の機構に組み込まれた。
奥絵師は若年寄の支配下にあり,知行200石を与えられる旗本格であり,世襲と帯刀が許された。江戸城の御絵部屋に毎月定日に出仕して御用を勤めるほか,臨時の制作もあった。禄高は多くないが,絵の鑑定料など他の収入が多く生活は裕福であった。奥絵師の下にはこれを助ける表絵師がいた。狩野の分家や門人の家系で,探幽の養子洞雲益信に始まる駿河台狩野家をはじめとする15家があり,禄高は二十人扶持以下の御家人格で,帯刀は許されず一代限りをたてまえとしていた。さらにこの下に民間で画業を営む町狩野と呼ばれる狩野派門人の画家たちがいた。また諸藩のほとんどが御用絵師として狩野派の画家を採用しており,全国のあらゆる階層に狩野派の絵画が浸透していった。狩野派はこうした組織を作って画壇での実権を握るとともに,自らの権威づけをも行っている。それが17世紀後半から行われる画史の編纂である。 最初の画史といわれる《丹青若木集》は光信の門人とされる狩野一渓(1599-1662)の手になるものであり,京狩野の狩野永納は《本朝画史》(1693)を完成させている。とくに《本朝画史》は,狩野派はやまと絵と漢画の両者を総合したものという見方に立って編集されている。江戸狩野の絵画制作に対する考え方は,安信の《画道要訣》(1680)に端的に現れている。絵には天与の才能による〈質画〉と,古画を学んで得られる〈学画〉とがあり,狩野派では,後世に伝えることができるという点で質画の妙よりも学画の法をよしとする。そのため,修行は常信などの作った手本が段階に従って与えられ,それを正確に模写することであり,一家を成すまでに10年以上かかった。その模本は次に自分が教えたり,描いたりするときの手本となった。この粉本主義は,御用絵師として画家の技術を一定の水準に保つためのものであったが,しだいに画一的で創造性の乏しい作品しか生み出さなくなった。狩野派内部においても,やまと絵や琳派の技法を取り入れてそれを打破しようとする者があったが,狩野派以外の画家にその努力が多くみられる。狩野派を破門されたといわれる久隅(くすみ)守景や英(はなぶさ)一蝶は風俗画に新生面を開き,琳派の尾形光琳や酒井抱一,南画の彭城(さかき)百川や谷文晁,円山派の円山応挙,洋風画の司馬江漢などは,みな初め狩野派に学んでおり,その点では江戸時代の諸派のほとんどが狩野派から生まれたといえる。明治維新によって御用絵師の地位を失った狩野派の多くは転業したが,狩野芳崖や橋本雅邦などが出て明治の新しい日本画形成に力を尽くした。
執筆者:斉藤 昌利
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室町時代から明治に至る日本絵画史上最大の画派。封建的な世襲制と強固な同族的紐帯(ちゅうたい)を基本とした強力な作画機構を築き上げ、膨大な需要に応ずるとともに、400年の長きにわたって、近世画壇に君臨し続けた。その歴史は、室町後期、始祖狩野正信(まさのぶ)が小栗宗湛(おぐりそうたん)の後を継いで足利(あしかが)幕府の御用絵師に任ぜられたことに始まる。正信は中国の宋元画(そうげんが)に学んだ漢画系の画人であったが、時に応じてはわが国固有の大和絵(やまとえ)の技法をも自由に取り入れ、日本人の感性に根ざした平明な画風を志向した。その子元信は、正信に萌芽(ほうが)した和漢の融合をいっそう推し進め、大和絵の伝統的な装飾性を生かした明快な障壁画(しょうへきが)様式を創造、きたるべき近世絵画への偉大なる第一歩を踏み出した。さらに門弟多数を擁した工房を主宰、優れた政治的手腕によって戦国の世を大胆に生き抜き、後の狩野派発展の基礎を築いた。元信には、祐雪(ゆうせつ)、松栄(しょうえい)の子息や、名作『高雄観楓図屏風(たかおかんぷうずびょうぶ)』の画家秀頼(ひでより)(元信の次男とも、孫の真笑(しんしょう)ともいわれるが、その伝歴は不明。ただ1570年代まで活躍していたことは間違いない)などの門人があり、ことに宗家を継いだ松栄は、穏やかで温かみある佳品を残しているが、真に元信の画風を受け継いだのは孫の永徳であった。永徳は、祖父の創造した大画面構成法を飛躍的に展開させ、豊かな装飾性と壮大な気宇をあわせもった、いわゆる桃山様式を完成する。それは、織田信長、豊臣秀吉(とよとみひでよし)などの天下人の趣好に合致し、その用命によって、安土城(あづちじょう)天守閣をはじめ聚楽第(じゅらくだい)、大坂城など、当代を代表する大規模な殿舎の障壁画にその天賦の才腕を振るった。永徳の没後、彼の達成したこの桃山様式は、弟子の山楽(さんらく)や長男光信(みつのぶ)らに継承されたが、永徳の豪壮な画風をよく伝え、これに写実性と装飾性を付け加えて独自の様式を確立したのは山楽であった。
これに対し宗家を継いだ光信は、大和絵への共感から父の画風を和様化し、いっそう繊細優美に変質させる。そして関ヶ原の戦い(1600)以降の政情不安のなかで、徐々に徳川家との関係を密にし、後代の狩野派による画壇支配への布石ともなった。光信の周辺には、子の貞信(さだのぶ)、弟の孝信(たかのぶ)がいたが、いずれも早世し、ここに狩野派は大きな転換期を迎える。しかしこの危機も、永徳の弟長信や光信の高弟興以(こうい)らの努力と、孝信の遺児守信(探幽(たんゆう))、尚信(なおのぶ)、安信(やすのぶ)らの成長とによって、老獪(ろうかい)に乗り切る。ことに探幽は、余白の多い淡泊な構図のうちに瀟洒(しょうしゃ)で端正な新様式を創造、これは新秩序の確立を目ざした幕府支配者の趣味にも合致し、その絶大なる支持を得る。彼は、江戸城鍛冶橋(かじばし)門外に屋敷を与えられ、鍛冶橋狩野家の祖となるが、その弟たちも尚信は木挽町(こびきちょう)家を、安信は中橋家(狩野宗家)をそれぞれおこし、幕府の絵事御用を勤めた。この3家に、尚信の子常信(つねのぶ)の次子岑信(みねのぶ)が分家してたてた浜町(はまちょう)家を加えて、4家は奥絵師とよばれ、代々幕府の御用絵師としてその地位を保証された。そして、この奥絵師の下には表絵師、各藩のお抱え絵師などがあり、狩野派は江戸時代を通じて安定した勢力を保つこととなる。しかしそうした地位に安住したためか、しだいに芸術的創造力を枯渇させていく。そのなかで皮肉にも、久隅守景(くすみもりかげ)や英一蝶(はなぶさいっちょう)など破門されたり、一門から遠ざかっていった画家にみるべき作品が多い。
もっともこれとは別に、江戸期の狩野派には、多くの画家が一度はその門に入り、それへの反発から新しい芸術運動をおこすといった反面教師的な存在意義や、広く門戸を開いた絵画教育機関としての機能があったこともまた忘れてはならない。そうした狩野派の潜在的意義が、明治初年における狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)の2巨匠のうちに顕在化し、これが岡倉天心らの日本画近代化運動に多大なる貢献をもたらすこととなる。
[榊原 悟]
『武田恒夫著『日本の美術53 元信・永徳・探幽』(1979・小学館)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
室町中期~明治初期の日本画最大の画派。室町幕府の御用絵師狩野正信に始まる。その子元信は和漢融合の新しい装飾様式を創り,同時に血縁者と弟子からなる工房を経営。織豊政権下で重用された元信の孫の永徳は,多くの城郭殿舎の障壁画制作に一門絵師を率いてあたり,その豪放華麗な金碧(きんぺき)障壁画は一世を風靡した。永徳急逝後は子の光信・孝信や高弟山楽(さんらく)らが同派を維持,ついで孝信の子の探幽3兄弟が江戸幕府の御用絵師となり江戸に移住,一族と門弟を序列化して幕府職制にならった巨大な画家組織を作りあげた。その地位と家系は世襲によって安泰であったが,流派を維持すべく粉本主義の教育を続けたため,画作はしだいに創意を欠くものとなった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…すぐれた日本的意匠の創造という点で,日本美術史上の一つの頂点をここに認めることができる。装飾屛風への需要は,この時期に飛躍的に増し,それに応じて民間画工が狩野派,土佐派に代わり活躍した。風俗画は彼らの最も多く手がけた画題であり,そこには時代の現世享楽の気風を反映して遊里や芝居小屋の情景が好んで描かれた。…
… 15世紀は彩・墨混在の時代であったが,16世紀初め,幅広く画技を習得した狩野元信の出現により彩・墨を兼ねる流派様式を確立する。障屛画制作に対する狩野派の指導理念は,やがて17世紀の末に狩野永納がその著書において明らかにする。すなわち,《本朝画史》に示された障屛画制作の方式では,城郭御殿において多様化した生活空間の機能に画題や技法をみごとに対応させて整合的にとらえる。…
※「狩野派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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