安土(あづち)桃山時代の画家。海北派の祖。浅井長政(ながまさ)麾下(きか)の重臣海北善右衛門綱親(ぜんえもんつなちか)の五男(あるいは三男)として、近江国(おうみのくに)坂田郡(滋賀県米原(まいばら)市)に生まれる。名を紹益(しょうえき)、友松はその字(あざな)である。1573年(天正1)織田信長によって主家浅井家が滅ぼされ、武門の海北家も絶える。しかし、すでに早く京都・東福寺に出家していた友松一人はこの難を逃れ、41歳で還俗(げんぞく)、以後海北家再興を志し、画事のかたわら武芸にも励んだ。画(え)は初め狩野元信(かのうもとのぶ)あるいは永徳(えいとく)に師事したともいわれるが、いずれともにわかには決めがたく、おそらくは独力で自らの画境を切り開いていったのであろう。深く宋元画(そうげんが)を研究、ことに南宋(なんそう)の画院画家梁楷(りょうかい)に私淑し、減筆描法を学ぶ。その省略の要を得た友松独特の人物画は「袋人物」とよばれ賞賛された。そうした画人としての活動だけでなく、友松は和歌や連歌、茶の湯にも通じ、当代一流の文化人としての高い教養を備えていた。その一端は彼の幅広い交遊からもうかがえ、大徳寺の春屋宗園(しゅんおくそうえん)、東福寺の集雲守藤、連歌師里村紹巴(じょうは)と親交を結んだ。また明智光秀(あけちみつひで)の配下であった斎藤利三(としみつ)とはとりわけ親しく、のち82年山崎の合戦で光秀が敗れ、利三が秀吉側に捕らえられて処刑されたとき、友松はその遺体を奪い返し、真如堂に葬ったという。後年海北家は友松の子友雪(ゆうせつ)の代になって一時没落し、町絵師的生活を送るが、このとき海北家を引き立て再興させたのは、ほかならぬ利三の娘春日局(かすがのつぼね)であった。友松の恩義に報いたのであろう。
友松は、他の近世初期の画人に比べ、幸運なことに遺作も多い。しかし、それらの多くは60歳代以後のもので、彼の画風形成期についてはいまだ不明の点も多い。そのなかで年記のある作品としては、1599年(慶長4)の建仁寺(けんにんじ)大方丈障壁画(しょうへきが)や、1602年(慶長7)の『飲中八仙図屏風(びょうぶ)』(京都国立博物館)および『山水図屏風』(東京国立博物館)がある。これ以後晩年には桂宮智仁(かつらのみやとしひと)親王の知遇も得、同家へしばしば出入りした。御物の『浜松図屏風』『網干(あぼし)図屏風』は桂宮家伝世の品である。これらの作品以外に、建仁寺禅居庵障壁画、『雲竜図屏風』(北野天満宮)、『牡丹(ぼたん)図屏風』(妙心寺)などがその代表作に数えられよう。いずれも気迫のこもった鋭い表現をみせ、武人画家友松のおもかげを彷彿(ほうふつ)とさせる。慶長(けいちょう)20年6月2日没。親友斎藤利三の墓もある真如堂に葬られた。
[榊原 悟]
『河合正朝著『日本美術絵画全集11 友松・等顔』(1981・集英社)』▽『大津市歴史博物館編・刊『近江の巨匠――海北友松』(1997)』
桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江浅井家の重臣海北善右衛門尉綱親の子で幼時に出家し,東福寺で修禅。絵を狩野派に習った。1573年(天正1)織田信長の浅井長政攻略による海北家滅亡後は,武門再興を志して還俗。画事よりは弓馬の道を積極的に学んだらしい。豊臣秀吉の部将亀井茲矩は武道の師・画事の後援者であり,明智光秀の家老斎藤利三(?-1582),真如堂東陽坊長盛(1515-98)らは風流の友。里村紹巴は連歌の師で,五山の禅僧との交友も深かった。82年山崎合戦に敗れて磔刑にされた斎藤利三の屍を,東陽坊と謀って,夜陰に乗じ奪い,真如堂に葬った逸話がある。93年(文禄2)施薬院全宗の茶の湯で秀吉に画才を見いだされたころから,武門の志を捨て画事に専念したものと見られ,遺作もまた60歳前後から没年までのものが多い。しかし,幅広い教養人として,終生芸事を一段低く見る武門の気概を失わなかったため,作品には,武人的な鋭い覇気がうかがえる。99年(慶長4)再建の建仁寺方丈に描く《琴棋書画図》《花鳥図》《竹林七賢図》などのほか,霊洞院の《花鳥図》,禅居庵の《松竹梅図》などの襖絵は,狩野派に学んだ巨大樹木など桃山的な様式と同時に,梁楷様(りようかいよう)の〈袋人物〉の造成や,牧谿様(もつけいよう)の叭々鳥(ははちよう)に潑墨風の松を組み合わせるなど,独自の画技を展開し,象徴的で直截な自己主張を表している。また《飲中八仙図》屛風(京都国立博物館),《山水図》屛風(東京国立博物館),《楼閣山水図》屛風(MOA美術館)などは,玉風の潑墨もまじえ,真行草の三体を会得したことを示す。宋元画に対する研鑽が深く,散聖・列仙・禅宗祖師等を描く水墨画も多い。晩年には妙心寺の《琴棋書画図》《花卉図》《三酸・寒山拾得図》など金地着色屛風の作例も残す。また,宮中や公家に出入りし,桂宮家の《浜松図》屛風(宮内庁)なども作した。友松の子友雪(1598-1677)は絵屋的な素養を合わせてやまと絵の題材や風俗画にも活路を見いだし,《祇園祭礼図》屛風(八幡山保存会)などを描くほか,狩野派と共に禁裏の宮殿障壁画制作に参加するなど,画技の幅を広げた。その後の海北派は開祖の個性が強すぎて評価は低いが,和漢融合した独特の画風で民間を生きのび,江戸時代を通じて命脈を保った。
執筆者:中島 純司
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(川本桂子)
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1533~1615.6.2
桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江国浅井家家臣海北善右衛門綱親の子。同国坂田郡生れ。幼時から京都東福寺に入り修禅。40歳代で還俗し,海北家再興を志したが,文禄年間頃から画家として活動を始める。狩野派に学ぶ一方で宋元水墨画も体得し,武人的な気迫があふれる独自の画風をうみだす。晩年は宮中の御用も勤め,画家として名声を得た。1599年(慶長4)再建の建仁寺方丈の襖絵「花鳥図」(重文)や,「飲中八仙図屏風」(京都国立博物館蔵,重文)などの水墨画のほか,「花卉(かき)図屏風」(妙心寺蔵,重文)や「浜松図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)などの金屏風も描いた。
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…それはまたこの時代の障壁画に共通する傾向でもあった。 長谷川等伯,狩野光信のほか狩野山楽,海北友松らの活躍も加わって,慶長年間(1596‐1615)の障壁画制作は多彩をきわめた。なかでも山楽の大覚寺襖絵,友松の建仁寺襖絵などは永徳の豪放な画風がこれらの画家に引きつがれてさらに新しい発展をとげたことを示している。…
…いわゆる逸格の画家たちの人物画は衣紋を粗筆,面貌を細筆でえがかれているが,この画風が,梁楷まで伝えられ,洗練度を加えたと考えられる。日本の海北友松のいわゆる袋人物(ふくろじんぶつ)なども減筆体の一バリエーションである。【戸田 禎佑】。…
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