コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

海北友松 かいほう

百科事典マイペディアの解説

海北友松【かいほうゆうしょう】

桃山時代の画家。近江(おうみ)の人。名は紹益。武門に生れ,浅井家とともに滅亡した海北家の再興を志したが果たさず,画才により名をあげた。画技は狩野元信狩野永徳に学んだとされるが,梁楷玉澗なども研究,永徳の気宇の大きさと宋元画の精神性を止揚した独特の画境を開拓した。
→関連項目寒山拾得妙心寺

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

海北友松 かいほう-ゆうしょう

1533-1615 織豊-江戸時代前期の画家。
天文(てんぶん)2年生まれ。海北綱親の子。京都東福寺で出家したが,主家浅井家滅亡ののち,41歳で還俗(げんぞく)。武門海北家の再興をはかるがはたせず,狩野元信(一説には狩野永徳)に師事,画家の道をあゆむ。南宋(なんそう)(中国)の画家梁楷(りょう-かい)らの影響をうけ,おおくの障屏画を制作。慶長20年6月2日死去。83歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は紹益。作品に「飲中八仙図屏風(びょうぶ)」「山水図屏風」など。

出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

海北友松

没年:元和1.6.2(1615.6.27)
生年:天文2(1533)
桃山時代の画家。名は紹益。浅井氏の重臣海北善右衛門尉綱親の5男(一説に3男)として近江国(滋賀県)坂田郡に生まれる。幼時より東福寺に禅修行に出されていたため,天正1(1573)年織田信長の浅井攻めで父や兄が主家と共に討死した際にも難を逃れたと伝えられる(『海北家由緒記』,「海北友松夫妻像」賛)。修禅のかたわら絵を狩野元信に学び,また中国・宋の画家梁楷に倣った画をもよくしたが,芸家として世に処するのを恥じて,一族が滅んだ40歳を過ぎてから還俗。武術の鍛練に励み,海北家の再興を目指したが,武士として身を立てることはできず,豊臣秀吉や後陽成天皇ら宮中の用命をも受ける画家として後半生を生きた。 今日知られる友松作品では早い時期に属する建仁寺の水墨障壁画群(1599年の本坊方丈襖絵や同塔頭大中院・霊洞院・禅居庵のもの)には,全作品中最も鋭い気迫がみなぎり,武士を志した画家の気概が感じられる。慶長7(1602)年ごろから八条宮智仁親王邸に出入りし,やがて後陽成天皇など宮中の御用をも勤めることとなった。その時期のやまと絵学習が,「浜松図屏風」(宮内庁蔵)や「花卉図屏風」(妙心寺蔵)のような機知的で意匠性に富む金碧作品の制作につながった。また最晩年の軽妙なタッチの水墨の押絵は宮中や禅僧の間で好評を博した。画竜にたけたほか,風をはらんだ袋のような衣をつけた略筆体人物画(袋絵,袋人物)を得意とした。天正10(1582)年山崎の戦で敗れて処刑された友人の斎藤利三の妻子の面倒をみ,その遺児がのちに徳川家光の乳母春日局となった話も人口に膾炙している。<参考文献>武田恒夫・河合正朝『建仁寺』,河合正朝「友松/等顔」(『日本美術絵画全集』11巻),武田恒夫『海北友松』

(川本桂子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

かいほうゆうしょう【海北友松】

1533‐1615(天文2‐元和1)
桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江浅井家の重臣海北善右衛門尉綱親の子で幼時に出家し,東福寺で修禅。絵を狩野派に習った。1573年(天正1)織田信長の浅井長政攻略による海北家滅亡後は,武門再興を志して還俗。画事よりは弓馬の道を積極的に学んだらしい。豊臣秀吉の部将亀井茲矩は武道の師・画事の後援者であり,明智光秀の家老斎藤利三(?‐1582),真如堂東陽坊長盛(1515‐98)らは風流の友。里村紹巴は連歌の師で,五山の禅僧との交友も深かった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

かいほうゆうしょう【海北友松】

1533~1615) 安土桃山時代の画家。近江の人。海北派の祖。狩野派に学び、また中国の梁楷りようかいや牧谿もつけいに私淑。当時の水墨画に新風を吹き込み、金碧画の様式を確立。建仁寺方丈襖絵など障壁画・屛風絵を多数描く。子の友雪も画家。

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

海北友松
かいほうゆうしょう

[生]天文2(1533).江州,坂田
[没]慶長20(1615).6.2. 京都
桃山時代の画家。海北派の祖。浅井家重臣,海北善右衛門尉綱親の5男あるいは3男。名は紹益。幼時より喝食として東福寺に預けられていたため,浅井家滅亡時一族と運命をともにしなかったと伝えられるが,前半生の経歴には不明な点が多い。やがて還俗して武道に励み,海北家再興を志したが,一方で狩野派やその源流である宋元絵画を学んで,本格的な作画活動に入った。石田三成,亀井茲矩,斎藤利三らの武将のほか,集雲守藤らの五山僧や八条宮智仁親王をはじめとする公家衆とも親交を結んで絵の注文を受け,その画名は遠く朝鮮にまで及んだ。狩野派を学びながら,のちに独自の筆法,用墨,構成法を獲得,武人らしい鋭い気迫と斬新な趣向に満ちた新しい画境を開いて一家をなした。また,宋の梁楷私淑して減筆体の飄逸な人物描写を創始し,『三酸寒山拾得図屏風』 (妙心寺) ,『竹林七賢図』襖絵 (現掛幅装 16幅,建仁寺本坊) など多数の優品を残し,同時代の他派の画人にも大きな影響を与えた。制作年代の明確な作品は,慶長4 (1599) 年の建仁寺本坊大方丈障壁画,同7年の『飲中八仙図屏風』 (京都国立博物館) ,『山水図屏風』 (東京国立博物館) などわずかであるが,遺品の数は多く,建仁寺塔頭の障壁画のほか,『網干図屏風』 (宮内庁三の丸尚蔵館) ,『浜松図屏風』 (同) のようなやまと絵の題材を扱ったもの,妙心寺の『琴棋書画図屏風』,『梅・牡丹図屏風』のような金碧濃彩画,水墨の『雲竜図屏風』 (北野天満宮) ,『四季山水図屏風』 (MOA美術館) など,多種多様な内容をもつ。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

海北友松
かいほうゆうしょう
(1533―1615)

安土(あづち)桃山時代の画家。海北派の祖。浅井長政(ながまさ)麾下(きか)の重臣海北善右衛門綱親(ぜんえもんつなちか)の五男(あるいは三男)として、近江国(おうみのくに)坂田郡(滋賀県米原(まいばら)市)に生まれる。名を紹益(しょうえき)、友松はその字(あざな)である。1573年(天正1)織田信長によって主家浅井家が滅ぼされ、武門の海北家も絶える。しかし、すでに早く京都・東福寺に出家していた友松一人はこの難を逃れ、41歳で還俗(げんぞく)、以後海北家再興を志し、画事のかたわら武芸にも励んだ。画(え)は初め狩野元信(かのうもとのぶ)あるいは永徳(えいとく)に師事したともいわれるが、いずれともにわかには決めがたく、おそらくは独力で自らの画境を切り開いていったのであろう。深く宋元画(そうげんが)を研究、ことに南宋(なんそう)の画院画家梁楷(りょうかい)に私淑し、減筆描法を学ぶ。その省略の要を得た友松独特の人物画は「袋人物」とよばれ賞賛された。そうした画人としての活動だけでなく、友松は和歌や連歌、茶の湯にも通じ、当代一流の文化人としての高い教養を備えていた。その一端は彼の幅広い交遊からもうかがえ、大徳寺の春屋宗園(しゅんおくそうえん)、東福寺の集雲守藤、連歌師里村紹巴(じょうは)と親交を結んだ。また明智光秀(あけちみつひで)の配下であった斎藤利三(としみつ)とはとりわけ親しく、のち82年山崎の合戦で光秀が敗れ、利三が秀吉側に捕らえられて処刑されたとき、友松はその遺体を奪い返し、真如堂に葬ったという。後年海北家は友松の子友雪(ゆうせつ)の代になって一時没落し、町絵師的生活を送るが、このとき海北家を引き立て再興させたのは、ほかならぬ利三の娘春日局(かすがのつぼね)であった。友松の恩義に報いたのであろう。
 友松は、他の近世初期の画人に比べ、幸運なことに遺作も多い。しかし、それらの多くは60歳代以後のもので、彼の画風形成期についてはいまだ不明の点も多い。そのなかで年記のある作品としては、1599年(慶長4)の建仁寺(けんにんじ)大方丈障壁画(しょうへきが)や、1602年(慶長7)の『飲中八仙図屏風(びょうぶ)』(京都国立博物館)および『山水図屏風』(東京国立博物館)がある。これ以後晩年には桂宮智仁(かつらのみやとしひと)親王の知遇も得、同家へしばしば出入りした。御物の『浜松図屏風』『網干(あぼし)図屏風』は桂宮家伝世の品である。これらの作品以外に、建仁寺禅居庵障壁画、『雲竜図屏風』(北野天満宮)、『牡丹(ぼたん)図屏風』(妙心寺)などがその代表作に数えられよう。いずれも気迫のこもった鋭い表現をみせ、武人画家友松のおもかげを彷彿(ほうふつ)とさせる。慶長(けいちょう)20年6月2日没。親友斎藤利三の墓もある真如堂に葬られた。[榊原 悟]
『河合正朝著『日本美術絵画全集11 友松・等顔』(1981・集英社) ▽大津市歴史博物館編・刊『近江の巨匠――海北友松』(1997)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の海北友松の言及

【安土桃山時代美術】より

…それはまたこの時代の障壁画に共通する傾向でもあった。 長谷川等伯,狩野光信のほか狩野山楽,海北友松らの活躍も加わって,慶長年間(1596‐1615)の障壁画制作は多彩をきわめた。なかでも山楽の大覚寺襖絵,友松の建仁寺襖絵などは永徳の豪放な画風がこれらの画家に引きつがれてさらに新しい発展をとげたことを示している。…

【減筆】より

…いわゆる逸格の画家たちの人物画は衣紋を粗筆,面貌を細筆でえがかれているが,この画風が,梁楷まで伝えられ,洗練度を加えたと考えられる。日本の海北友松のいわゆる袋人物(ふくろじんぶつ)なども減筆体の一バリエーションである。【戸田 禎佑】。…

※「海北友松」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

海北友松の関連キーワード寒山・拾得金碧障屏画神前松徳一宮長常桃山美術海北友雪金碧画新風減筆

海北友松の関連情報