朝鮮文学(読み)ちょうせんぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝鮮文学」の意味・わかりやすい解説

朝鮮文学
ちょうせんぶんがく

朝鮮の文学には二つの流れがある。一つはハングルで書かれた文学であり、いま一つは漢字で書かれた漢文学がそれである。朝鮮固有の文字であるハングル(訓民正音(くんみんせいおん))が制定されたのは15世紀のなかばだが、それまでの文学はすべて漢字によって表記された。新羅(しらぎ)時代の郷歌(きょうか/ヒャンガ)も、日本の万葉仮名のように、漢字の音と訓を借りて朝鮮語を表記した吏読(りとう/イドウ)式表記によって書かれている。

 朝鮮における漢文学は、ハングルが制定されたのちも、ハングル文学の発展と並行し、20世紀初頭まで続けられた。一部の研究者の間には、これら漢文学を朝鮮文学の範疇(はんちゅう)から除外すべきだとの意見もあったが、民族の生活感情と情緒を盛ったこれらの作品はりっぱな朝鮮文学であり、遺産として継承すべきだとの主張が主流となっている。

 朝鮮は、北は中国大陸と接し、南は海峡一つ隔てて日本と対峙(たいじ)する位置にある。古代から近代に至るまで朝鮮はこの南北からの挟撃にあい、しばしば武力侵攻を受けてきた。それはまた、強大かつ高度な漢文化の波にさらされていたことを示しており、近代以降は日本の植民地化による日本文化の侵食を受けたことを物語る。このように南北から挟撃を受けながら独特な生命力を維持してきたのが朝鮮文学である。したがって、その性格もさまざまな陰影をもっている。朝鮮文学の特色を、外来文化・外来文字に対する抵抗に置く人、あるいは「ねばり」と「慇懃(いんぎん/ウングン)」(そこはかとない細やかな情趣)にみる人、あるいは「恨(ハン)」だという人、楽天性と諧謔(かいぎゃく)・風刺性に求める人など、さまざまである。

[尹 學 準]

古代文学

紀元前後、朝鮮半島には70余の部族国家が形成され群立していた。『魏志東夷伝(ぎしとういでん)』などによれば、種播(たねま)きのあとや刈り入れが終わるとこれらの部族では飲酒歌舞による祭天の儀式が盛んに行われたという。ここで歌われた原始歌謡が朝鮮文学の濫觴(らんしょう)をなすといわれる。『亀旨歌(きしか)』などがそれである。

 古代の部族国家は、その後統合を重ね、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅の3国が鼎立(ていりつ)する時代となる。これらの国家が成立する過程でさまざまな建国神話や説話が生まれたが、これらの民族叙事詩は、たとえば12世紀の詩人、李奎報(りけいほう)によって書かれた『東明王篇(へん)』でおおよそうかがい知ることができよう。『東明王篇』は、李奎報が『旧三国史』の「東明王本紀」を読んで感動し、それを再構成してつくったと序文で述べているが、高句麗の建国過程を英雄朱蒙(チュモン)の形象を通してダイナミックに描いた叙事詩である。

 3国はそれぞれ早くから大陸の文化を輸入し、独自の文化を形成していくのだが、文化が根を下ろすにしたがって史書編纂(へんさん)への意欲を刺激した。記録によると、百済では350年に高興という博士によって『書記』が編纂され、ほぼ同じころ高句麗でも『留記』が編まれ、新羅では545年に『国史』が編纂されたという。これらを統合し再編したのが『旧三国史』と思われるが、これらはことごとく隠滅して、その内容を知ることはできない。ただ、8世紀の初めに編纂された日本の『古事記』や『日本書紀』と大和(やまと)朝廷の関係から類推して、朝鮮半島の一連の史書もそれぞれ民族の叙事詩であったであろうことは容易に推察される。また、『三国史記』や『三国遺事』に建国神話や説話が伝承されているのをみても、それはわかる。

 その後、新羅によって3国が統一され、国力が充実し、文化は爛熟(らんじゅく)期に入る。たとえ表現手段は漢字であるにせよ、それを自己のものにして朝鮮独自の漢文学を形成した。『花王戒(かおうかい)』や『調信夢生(ちょうしんむせい)』『金現感虎(きんげんかんこ)』のような説話文学や、金大問(きんだいもん)(生没年不詳)による『高僧伝』『花郎世紀(かろうせいき)』などの伝記類もこの時代に書かれた。なかでも崔致遠(さいちえん)の『桂苑筆耕(けいえんひっこう)』は統一新羅の代表的な詩文集である。

 また、漢字の利用はそれにとどまらず、音と訓をあわせて使う吏読・郷札(きょうさつ/ヒャンチャル)という方法を考え出すようになった。日本の万葉仮名のようなものであるが、この吏読の表記法は朝鮮文学の発展に大きく寄与した。888年大矩和尚(だいくわじょう)らによって『三代目(さんだいもく)』という郷歌集が編纂されたのはその表れである。この朝鮮固有の詩歌を収めた同書はいま伝わっていないが、『三国遺事』『均如伝』に25首残っている。

[尹 學 準]

高麗時代(918~1392)の文学

この時代に入ると郷歌が衰退し、漢文学はますます隆盛した。高麗(こうらい)の説話文学は『三国史記』『三国遺事』などが編纂された12、13世紀ごろには絶頂に達した感があった。李仁老(りじんろう)(1152―1220)の『破閑集(はかんしゅう)』、李奎報の『白雲小説』、崔滋(さいじ)(1188―1260)の『補閑集(ほかんしゅう)』、李斉賢(りせいけん)(1287―1367)の『櫟翁稗説(れきおうはいぜつ)』など、漢文によるいわゆる稗官(はいかん)小説が流行したのである。

 郷歌文学の衰退によって停滞状態に陥っていた詩歌も、高麗中期の武臣の乱以後、庶民階級の感情を盛った新しい形式の詩歌が出てきた。俗歌、別曲、長歌とよばれる「高麗歌謡」がそれである。これは、自然を歌い、恋を歌うという自由奔放なものが多く、作者は国王から僧侶(そうりょ)、遊女までという幅広いものであるが、その多くはやはり庶民階級であった。たとえば『双花店(そうかてん)』という歌謡は次のような句で始まる。

 饅頭(まんじゅう)屋に饅頭買いに行ったら/回回(フエフエ)のおやじが私の手を握っただ/そしておやじの言うことにゃ/「これが店の内外(うちそと)でうわさになれば/小さいお前 小役者め/お前が言うたと思うぞよ/お前の寝床にわしも行く/こげなひどい寝床は見たことない……」(田中明訳)
 これら「高麗歌謡」は音楽にのせて唱せられたが、李朝時代に入って古い楽曲が整理された際に、風俗を乱す「男女相悦之詞」だといって多くが葬り去られた。

[尹 學 準]

李朝時代(1392~1910)の文学

朝鮮文学史上特記すべきことは、なんといっても朝鮮の文字、訓民正音(くんみんせいおん)=ハングルの制定である。1443年、李朝第4代王世宗(せいそう)(在位1418~1450)は、正音庁を設置し、鄭麟趾(ていりんし)(1396―1478)、成三問(せいさんもん)(1418―1456)ら多くの学者たちを動員して、28字からなる表音文字を制定した。ハングルはそれから3年間の試用期間を経て1446年に頒布されたが、これによって朝鮮民族の言語生活は大きく解放された。

 1445年世宗は、鄭麟趾らに命じて、新しく制定したハングルで『龍飛御天歌(りゅうひぎょてんか)』をつくらせた。これは「天翔(あまか)くる海東の六竜が業(わざ)は すべて天の嘉(よみ)するもの……」という句で始まる長編詩歌(これを楽章という)で、李王朝の創業をたたえる頌詠(しょうえい)歌である。世宗自らも釈尊の功績をたたえる歌『月印千江之曲(げついんせんこうのきょく)』をつくった。ハングルに対する世宗の並々ならぬ意気込みがうかがえる。世宗は英明な君主で、四書をはじめ多くの漢籍を翻訳したほか、さまざまな文化事業をおこした。

 高麗末期に登場した時調(じちょう/シジョ)は、ハングルの出現に勢いを得て急速な発展を遂げた。吉再(きっさい)(1353―1419)、元天錫(げんてんしゃく)(1330―1402)らの懐古歌や、成三問ら「死六臣」たちの忠節歌、孟思誠(もうしせい)(1360―1438)の『江湖四時歌』、李賢輔(りけんぽ)(1467―1555)の『漁父詞』などがあり、男女の情愛を細やかに歌った詩人・黄真伊(こうしんい)(1506―1544)の相聞歌、性理学者・李滉(りこう)の『陶山十二曲』、李珥(じ)の『高山九曲歌』などは李朝前期を飾る優れた詩歌である。中期になると、詩語の洗練が一段と進み、鄭澈(ていてつ)や尹善道(いんぜんどう)(1587―1671)に至って絶頂に達した。彼らの一連の作品は、朝鮮語の美しさ、華麗さを極限にまで求めたものであり、言語芸術の極致といわれるほど磨かれたものだった。

 歌辞(かじ/カサ)も盛んだった。時調が三章六句体、45字内外の短歌であるのに対して、歌辞は韻文形式に散文的な内容を盛ったもので、三四調、または四四調の音律で延々と続く長歌である。丁克仁(ていこくじん)(1401―1481)の『賞春曲』が歌辞文学の嚆矢(こうし)だが、鄭澈により大成された。関東地方(朝鮮半島中部江原道(こうげんどう/カンウォンド)の大関嶺以東の地域)を遊覧しながら風景や風俗、故事などを巧みに詠み上げた『関東別曲』『思美人曲』などは歌辞文学の白眉(はくび)といえる。鄭澈に続く歌辞作者としては朴仁老(ぼくじんろう)(1561―1642)がいる。

 散文では朝鮮最初の小説集である金時習(きんじしゅう)の『金鰲新話(きんごうしんわ)』をあげねばならない。これは男女間の恋を大胆に描くことで、人間性を無視した儒教の呪縛(じゅばく)から解放されねばならぬという作者の思想が色濃く投影された作品集である。また徐居正(じょきょせい)(1420―1488)の詩話集『東人詩話』、説話文学として魚叔権(生没年代未詳)の『稗官雑記』、成俔(せいけん)(1439―1504)の『慵斎叢話(ようさいそうわ)』などがある。これらは李朝後期に開花した小説文学に著しい影響を与えた。

 16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて起きた壬辰倭乱(じんしんわらん)(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役)と丙子胡乱(へいしこらん)(清(しん)の侵入)の両乱は、朝鮮文学の様相を大きく変えた。この両乱を境に李朝を前期と後期に分けるが、前期の文学がおもに士大夫たちの専有物であったのに対し、後期文学のおもな担い手は庶民階級であった。時調は長歌の辞説時調(サソルシジョ)に、歌辞は内房歌辞(ないぼうかじ)として婦女子や庶民の手に移り展開していった。民間説話を巧みに取り入れ、新しいジャンルの唱劇として脚光を浴びたパンソリは、庶民芸術の極致といえるものである。このパンソリはハングル小説の隆盛を促した。パンソリの代表的な作者申在孝(しんざいこう)は、伝来のパンソリを整理、修正して六つのレパートリーに定着させた。

 後期文学の主流をなす小説の代表的な作品は許筠(きょいん)の『洪吉童伝(こうきつどうでん)』である。これはハングル小説の嚆矢であり、封建制度を否定、現実の変革を主張した小説で、朝鮮文学史上金字塔的な作品である。また、金万重(きんまんじゅう)の『九雲夢(きゅううんむ)』『謝氏南征記(しゃしなんせいき)』も多くの読者をひきつけた。小説文学は英祖・正祖時代(1725~1800)になって最盛期を迎える。おもな作品をあげると、『春香伝』『沈清(しんせい)伝』『興夫(こうふ)伝』『薔花紅蓮(しょうかこうれん)伝』などがある。

 また、漢文小説である朴趾源(ぼくしげん)の『両班(ヤンバン)伝』をはじめ一連の短編小説があるが、これらの作品は、無能な両班支配者たちに対する痛烈な揶揄(やゆ)と風刺で貫かれており、近代への幕開きを予兆している。

[尹 學 準]

近代文学

朝鮮近代文学は日本の植民地支配によって揺籃(ようらん)期から正常な発展を阻害された。したがって、1945年の解放までわずか50余年の間に朝鮮近代文学はさまざまな文学思潮をめまぐるしく摂取しながらも、つねに民衆の意識の近代化と民族の独立とを希求するという二つの課題を担わざるをえなかった。安定した小市民意識のうえに成り立つ私小説のたぐいは朝鮮近代には存在しえなかった。

 19世紀末葉、朝鮮の近代文学は「唱歌」と「新体詩」と「新小説」を先駆とする。唱歌は三四調、四四調、七五調などの形態で新思想・新事物を歌った。新体詩はいわば自由散文詩で、1908年に始まり、従来字数で数える唱歌の定型枠を打ち破ったものであった。新小説は1906年からほぼ10年間にわたって存在した一種の啓蒙(けいもう)的政治小説で、積極的に、自主独立の精神、愛国思想、新教育問題、婦人問題、人権問題などを鼓吹した。代表的作家に李人稙(りじんちょく/イインジク)、李海朝(りかいちょう/イヘジョ)(1869―1927)がいる。これら唱歌・新体詩・新小説を前史として本格的近代文学が1917年李光洙(りこうしゅ/イグァンス)の『無情』をもって切り開かれたとするのが一般的である。初期文壇を独占した李光洙、崔南善(さいなんぜん/チェナムソン)は、強烈な民族意識と啓蒙意識に支えられつつ、言文一致の文体をもって、社会科学から自然科学の分野に至るまで新しい知識と思想を精力的に朝鮮に紹介した。1919年の三・一独立運動挫折(ざせつ)の前後から、李光洙らの啓蒙主義に反旗を翻し、功利性を排除した文学雑誌『創造』『廃墟(はいきょ)』『白潮』が次々に創刊された。彼らはリアリズムとロマンチシズムをそれぞれ掲げ、自我の発見に努めた。

 そうしたなかから現実の状況を直視し既成秩序の変革への傾斜を示す文学が現れ、それがさらに発展し、おりからの世界プロレタリア文学運動の高まりにのって1925年「朝鮮プロレタリア芸術同盟」略称カップ(KAPF)が結成される運びとなった。カップは日本の弾圧を受けて1935年に解散せざるをえなくなったが、その10年間、日本の植民地支配にもっとも果敢に抵抗した文学活動を展開した。代表的作家に李箕永(りきえい/イギヨン)、韓雪野(かんせつや/ハンソルヤ)、詩人に林和(りんわ/イムファ)がいる。

 一方、李光洙、廉想渉(れんそうしょう/ヨムサンソプ)(本名廉尚燮)らの流れに沿う民族主義文学派も、プロレタリア階級意識を拒否することを通じて自己形成していった。この二つの文学流派は相拮抗(きっこう)しつつ、ともに日本の支配と対峙(たいじ)した。だが1931年の満州事変以降、日本の支配がますます狂暴化してくると、この両者はしだいに政治的関与を避けて一歩後退した。そこへモダニズム文学の影響も加わって1930年代なかばからは「純粋文学」が勢力を獲得する。ある者は土俗的リリシズム(叙情性)を追い、ある者は愛欲美学を描き、ある者は風俗描写に、ある者は歴史小説の世界に潜り込んだりした。しかしこの時期に文学は内面化され文章は彫琢(ちょうたく)されて、芸術的香気の高い作品が生まれた。やがて第二次世界大戦が始まると、創氏改名と並んで「国語」と称する日本語による創作が強要され、文人報国会が組織されて、心ならずも親日文学に手を染める文学者も現れたりしたが、最後まで頑強に抵抗して獄中死した李陸史(りりくし/イユクサ)、尹東柱(いんとうちゅう/ユンドンジュ)のような詩人もいた。

[大村益夫]

北朝鮮の文学

解放後の朝鮮は南北に分断され、文学もそれぞれ別途の発展の道をたどる。北朝鮮の文学の主要テーマは、抗日革命闘争とそれを継承した解放後の革命闘争と、社会主義時代の躍動する現実とを形象化する二点にあった。創作方法としては社会主義リアリズムをとり、思想性と芸術性の結合が要求されている。1960年代前半までは大規模な現代朝鮮文学選集や世界文学全集のたぐいも出版され比較的自由な雰囲気があったが、1965年以降は首相金日成(きんにっせい/キムイルソン)およびその肉親に敬愛の念を捧(ささ)げる作品が多数を占め、書き手と読み手の急速な膨張にもかかわらず、小説や詩部門ではやや硬直化現象がみられる。かわって輝かしい成果を収めているのは大型の「革命歌劇」である。抗日革命闘争の時期に創作された『血の海』『花を売る乙女』『ある自衛団員の運命』などの素材を近年独創的に歌劇化したもので、合唱団をあわせれば1000人の出演を要するものもあり、歌詞の平易さ、舞台装置の新くふうもあって、大衆的な人気を博している。

 1980年代、1990年代に入って、金日成、金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)という親子二代の指導者の事蹟を形成化する「首領形象文学」が全盛を極めている。国民に幸福をもたらした一国の指導者を崇拝し称賛することは文学の当然の責務であるという論理であるが、外国人の目から見ると、そのために文学の硬直化がもたらされているようにも思われる。しかし一方では韓国文学の紹介をはじめ、100巻本の世界文学全集が出版されるなど、従来否定してきた非社会主義文学を、良心的な民族主義文学であればこれを高く評価する傾向が明白になっており、文学面での南北統一への気運が高まりつつあることも確かである。

[大村益夫]

韓国(大韓民国)の文学

解放直後むしろ左翼陣営が勢いを得ていた北緯38度線以南では、1948年の韓国樹立後、左翼文学は完全に姿を消した。朝鮮戦争休戦後の混乱期には、虚無と極限状況のなかで生の可能性を求める作品傾向が主潮となり、『血書』(1955)の孫昌渉(そんしょうしょう/ソンチャンソプ)(1922―2010)、『五分間』(1957)の金声翰(きんせいかん/キムソンハン)(1919― )、『暗射地図』(1956)の徐基源(じょきげん/ソギウォン)(1930― )らが現れた。

[大村益夫]

1960~1970年代

1960年代は自由の挫折(ざせつ)に対する文学的挑戦の時代であった。学生・市民勢力が李承晩(りしょうばん/イスンマン)政権を打倒したにもかかわらず、翌1961年には朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)のクーデターが起きて、軍事政権が誕生した。

 1960年代の幕開けは崔仁勲(さいじんくん/チェインフン)の『広場』から始まった。この作品は南の個人主義も北の図式主義もともに批判している。主人公李明俊(イミョンジュン)は朝鮮戦争のなかで捕虜になったが、南にも北にも本国送還を望まず、投身自殺してしまう。

 そのほか1960年代の代表的文学者として、李清俊(りせいしゅん/イチョンジュン)(1939―2008)、金承鈺(きんしょうぎょく/キムスンオク)(1941― )、それに金芝河(キムジハ)らをあげることができる。とくに金芝河はその批判精神と絶妙な言語駆使による諷刺(ふうし)性によって軍事独裁政権に果敢に立ち向かった。彼の作品は日本でも数多く翻訳出版された。

 1970年代、韓国は産業化社会に突入し、急速な経済成長を遂げる。それと同時にそのひずみも露呈する。李文求(りぶんきゅう/イムング)(1941―2003)の『冠村随筆』(1977)は、産業化社会のなかで窮乏化していく農村の姿を描いた連作小説である。朴泰洵(ぼくたいじゅん/パクテスン)(1942―2019)の『いとしき里の丘の上』(1973)も、生活基盤を失っていく都市周辺住民の生活を描き、趙世煕(ちょうせいき/チョセヒ)(1942―2022)の『こびとが打ちあげた小さなボール』(1978)は疎外された工場労働者一家5人の物語である。これらの小説は高度経済成長の陰で非人間的な状況に追い込まれている農村や工場の現実を描き出している。

 1970年代のもう一つの特色は、短編小説中心から長編・中編が中心になっていったことである。19世紀末から三代にわたる一家の没落過程を通じて民族叙事詩的課題を扱った朴景利(ぼくけいり/パクキョンニ)(1927―2008)の『土地』(1969~1994)、朝鮮王朝(李朝)社会の最下層民を描いた黄晳暎(こうせきえい/ホァンソギョン)(1943― )の『張吉山』(1976~1984)などの大河小説が、その代表的例である。

[大村益夫]

1980年代

朴正煕、全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)、盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)と長期間続いた軍人出身大統領時代も終わりを告げ、1980年代末には文民大統領が選出される運びとなる。その間、抑圧されてきた人権の回復と民主化を求める文学が、1980年代文学の基調となった。また従来タブー視されてきた南北イデオロギーの抗争を、民族の悲劇として冷静に見つめ直した大河小説の出現も1980年代の成果であった。李泰(りたい/イテ)(1923―1997)の『南部軍』上下2巻(1988)は、朝鮮戦争時に智異山(ちいさん/チリサン)に立てこもった韓国の左翼系パルチザンを記録した長編手記である。

 趙廷来(ちょうていらい/チョジョンネ)(1943― )の大河小説『太白山脈』(1989完結)は、韓国成立から朝鮮戦争停戦(1948~1953)までを扱った歴史ドラマである。この小説は社会主義者イコール民族裏切者という韓国建国以来の国是に異議を唱え、韓国現代史を客観的に再検討する課題を文学を通じて提示した。

[大村益夫]

ソウル・オリンピック以降

1988年のソウル・オリンピックを契機として韓国は国際舞台に登場した。1980年代文学が抑圧されてきた人権の回復を求めた闘う文学だったとすれば、1990年代文学は理念的方向性を失った文学といえる。政治の季節は去り、ある意味では文学本来の姿を取り戻したともいえる。文学の社会的役割に対する期待は遠のき、情報化と商業主義が突出し、書店でも従来存在しなかった推理小説や武侠(ぶきょう)小説のコーナーが大きな売場面積を占めるようになった。

 こうした現象と関連して、女性作家が文学界の前面に躍り出た。崔允(さいいん/チェユン)(1953― )、申京淑(しんきょうしゅく/シンギョンスク)(1963― )、孔枝泳(こうしえい/コンジョン)(1963― )などがその代表格といえる。

 崔允の『灰色の雪だるま』(1992)は朴正煕時代の若者が受けた抑圧と傷跡を描いている。申京淑の『オルガンのあった場所』(1993)は社会倫理からはみでた愛の話で、憧(あこが)れと恨みの微妙な感情をとらえている。孔枝泳『サイの角のように一人行け』(1993)は家父長制に対する女性の抗弁である。

 一方、研究・評論の面で1990年代は北朝鮮の文学が全面解禁されて、研究や資料復刻も自由化され、いまや文学面での南北交流と統一への展望が具体化される段階を迎えようとしている。近年中にも南50巻北50巻の統一文学全集100巻本が出版予定されている。

[大村益夫]

『金思燁・趙演鉉著『朝鮮文学史』(1971・北望社)』『金東旭著『朝鮮文学史』(1974・日本放送出版協会)』『金宇鍾著、長璋吉訳注『韓国現代小説史』(1975・龍渓書舎)』『卞宰洙著『朝鮮文学史』(1985・青木書店)』『青柳優子著『韓国女性文学研究』(1997・お茶の水書房)』『李光鎬編、尹相仁・渡辺直紀訳『韓国の近現代文学』(2001・法政大学出版局)』『金素雲編・訳『現代韓国文学選集』全5巻(1973~1976・冬樹社)』『洪相圭訳『韓国古典文学選集』全3巻(1975・高麗書林)』『姜舜訳『現代韓国詩選』全5巻(1977~1981・梨花書房)』『李丞玉訳『現代韓国小説選』3冊(1978~1985・同成社)』『古山高麗雄著『韓国現代文学13人集』(1981・新潮社)』『大村益夫・長璋吉・三枝壽勝編訳『韓国短篇小説選』(1988・岩波書店)』『日外アソシエーツ編・刊『ロシア・東欧・北欧・ラテン・東洋文学に関する37年間の雑誌文献目録 昭和23年~昭和59年』(1988)』『高銀著、金学鉉訳詩集『祖国の星』(1989・新幹社)』『黄晳暎著、高崎宗司他訳『武器の影』上下(1989・岩波書店)』『茨木のり子訳編『韓国現代詩選』(1990・花神社)』『姜尚求他編『韓国の現代文学』全6冊(1992・柏書房)』『李文烈著、藤本敏和訳『われらの歪んだ英雄』(1992・情報センター出版局)』『朴婉緒著、中野宣子訳『結婚』(1992・学芸書林)』『めんどりの会編訳『ガラスの番人――韓国女性作家短編集1925~88』(1994・凱風社)』『ほんやくの会編訳『冬の幻――韓国女性作家作品集』(1995・朝日カルチャーセンター)』『趙廷来著『太白山脈』全10巻(1999~2000・ホーム社)』『玄基栄著、金石範訳『順伊おばさん』(2001・新幹社)』『大村益夫・長璋吉・三枝壽勝編訳『朝鮮短篇小説選』上下(岩波文庫)』『尹東柱著、伊吹郷訳『空と風と詩』(1984・影書房)』『尹学準・黒田勝弘・関川夏央編『韓国を読む――こんなに知らないとなりの国』(1986・集英社)』『大谷森繁・白川豊著『大谷森繁博士還暦記念朝鮮文学論叢』(1992・杉山書店)』『白川豊著『植民地期朝鮮の作家と日本』(1995・大学教育出版)』『崔基植著、青柳優子訳『韓国の民族文学論――東アジアの連帯を求めて』(1995・お茶の水書房)』『尹東柱詩碑建立委員会編『星うたう詩人――尹東柱の詩と研究』(1997・三五館)』『大村益夫編訳『対訳・詩で学ぶ朝鮮の心』(1998・青丘文化社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「朝鮮文学」の意味・わかりやすい解説

朝鮮文学 (ちょうせんぶんがく)

朝鮮における文学の起源は世界の他の文学と同じく,原始社会の歌舞にさかのぼる。《後漢書》や《魏志》の〈東夷伝〉には,夫余,高句麗,濊(わい),馬韓,弁韓など古代部族国家で,5月の播種期,10月の秋収期などに国中の人が集まり,祭天儀式(東盟,迎鼓など)のあと昼夜盛大に飲酒歌舞したと記している。こうした農耕儀礼や宗教的儀式を主宰する巫覡(ふげき)(シャーマン)の祝詞は神話の始源であり,群衆による歌と踊りは民謡の源流である。朝鮮民族は情熱的な民族で,その国民性は楽天的で〈モッ〉とよばれる風流やしゃれた感覚をこよなく愛する。またその言語は感性的な表現に適し感覚的な語彙に富む。朝鮮文学はまさにこの土壌の中で育まれ,将来の豊かな開花が期待された。しかし漢の四郡設置に始まる漢文化との接触は,その後,三国時代を経て7世紀ころには飛躍的に高まり,新羅末にはますます漢文学が上層階級に浸潤し,つぎの高麗,李朝を一貫して,文学といえば漢詩文を意味するようになった。したがって15世紀に朝鮮文字(ハングル)が創制されるまでの朝鮮文学は,漢文学を除くと〈郷歌〉と口伝歌謡,説話を残すにとどまる。ハングルの創制は朝鮮文化史における画期的事件であった。これより古くからの口承歌謡が文字に記録され,新しく定型の長・短歌が興り,ハングル小説が書かれた。しかしなお1894年の甲午改革を契機に〈新文学〉が出発するまでは,朝鮮語の文学,とくに小説は婦女子のもので正統な文学とは認められなかった。

文献として最古のものは高句麗琉璃明王の作と伝える《黄鳥歌》(前17年)で,その漢詩訳が《三国史記》に見える。また《三国遺事》には駕洛国始祖の開国伝説として《亀旨峰迎神歌》1首が漢詩訳の形で収録され,威嚇を以て神を迎えんとする原始巫俗の形態がうかがえる。百済の歌と伝えられる《井邑(せいゆう)詞》は行商人の妻が夫の身を案じた歌で,上代女性のひたむきな心を伝える秀歌である。この時代の文学を代表するのは〈郷歌〉である。歌集《三代目》(888編纂)が湮滅(いんめつ)した今日では,《三国遺事》所収の14首と《均如伝》所収の11首が残されているにすぎないが,讃仏歌以外に,歌の力によって災いをはらわんとする呪術的歌謡や民謡風の歌も包含され,上代の精神文化を探る貴重な遺産である。漢字の音訓を借用した表記法(郷礼),さまざまな階級の作者,真心をてらいなく素朴にうたった歌詞は,日本の《万葉集》と似る点が多い。ほかに歌名と歌の由来を漢文で伝えるものが相当あり,例えば〈会蘇曲〉は古代労働謡の発生の形態が新羅に継承されていたことを示している。この時代はまた説話文学の黎明期である。天帝の庶子桓雄が牝熊と交婚して檀君を生んだという檀君朝鮮開国神話や,民族の移動と各国の建国にまつわる伝説などが生まれたのもこの時期と思われる(〈朝鮮神話〉の項目を参照)。

はやく漢詩文をもってする科挙が実施され,漢詩は最高の水準に到達するが,郷歌形式の歌は高麗に入り急速に衰退していった。しかし民謡の一部は口承によって伝わり,のち李朝時代に《楽学軌範》(1493)と《楽章歌詞》(16世紀前半の中宗・明宗代編集)に採録され,その朝鮮語の歌詞を知ることができる。これらの〈高麗俗謡〉は20余首が残されているにすぎないが,いずれも秀歌のゆえに長く伝承されたものであり,母への思慕を歌った《思母曲》,恋人との別離を惜しみ嘆いた《カシリ》と《西山別曲》,歳時風の《動動》は,朝鮮古典詩歌の精華である。高麗時代はたび重なる外寇と内乱で民衆は塗炭の苦しみにあえいでいたに相違ないが,俗謡にみられる彼等の感情は豊かで,自由とたくましさがある。とくに恋歌はすばらしく,儒教倫理に拘束されない愛情至上主義が,大胆な表現ながら卑俗に堕さず歌い出されている。後期にはこれとは別に中国の詞に似た〈別曲(別曲体)〉が発達した。その嚆矢(こうし)は〈翰林別曲〉で,学者や文人により好んで作られた。散文では上代の神話や伝説が整備され,朴寅亮(ぼくいんりよう)の《殊異伝》などの伝奇的作品も著述されたが,後期には李穀らの学者が唐宋古文家の伝奇文に倣って〈擬人(仮伝)体小説〉に文才をふるい,李仁老李奎報らの詩話や逸話集も出現し,いずれも李朝散文学の発展に先駆的役目を果たした。

李朝文学は,ハングルの創制と,後期における両班(ヤンバン)以外の中人(ちゆうじん)・胥吏(しより)階級の創作への参加とパンソリなどの庶民文芸の出現により多彩な発展をみた。まず詩歌の幕開きは〈楽章〉と呼ばれる歌体で,典型的作品に《竜飛御天歌》《月印千江之曲》がある。郷歌以来の朝鮮固有の歌謡形式を踏襲し短縮した〈時調〉は高麗末に形式が完成するが,李朝の代表的詩歌となった。17世紀末ころまでは学者の即興詩的な色彩が強く,作風も道徳的で観念的であるが,金天沢,金寿長らの平民作家が輩出し,写実的で諧謔的,享楽的になり,形式も短型の〈平時調〉から中・長型の〈オッ時調〉〈辞説時調〉の破格型が生まれた。歌集《青丘永言》《海東歌謡》に集大成されている。作者としては尹善道(いんぜんどう)や開城の妓女黄真伊が有名であるが,上は王から下は庶民にいたり,日本の和歌や俳句のように国民的詩歌として今日もなお愛好者が多い。時調と並ぶ〈歌辞(歌詞)〉は,別曲体から発展し,丁克仁の《賞春曲》に最初の整った形態がみられる。韻文形式の中に散文的内容を含み,詩歌と散文の中間であり,長歌ともよばれる。3・4調や4・4調で単調なため,時調ほど発展はみられなかった。鄭澈(ていてつ)と朴仁老が代表的な作家であるが,許蘭雪軒の作と伝えられる《鳳仙花歌》は女性らしい繊細な筆致で美しい情感を表現している。

 小説は初期の段階では金時習の《金鰲(きんごう)新話》など漢文小説が主体であったが,ハングルによる仏典の翻訳や仏教説話の小説化の時期を経て,17世紀末から18世紀に入ると知識層の女性間に小説を愛読する者が増え,呼応して金万重の《九雲夢》などの長編通俗小説が現れ,多数の中国演義小説が翻訳・翻案され,ソウルには彼女たちを顧客にした貸本まで出現した。許筠(きよいん)の《洪吉童伝》は本格的ハングル小説のうち,現伝する最古のものとされる。一方,18世紀に入り庶民の娯楽として盛行した〈パンソリ〉(物語に節をつけて演唱するもの)や,街頭における講釈師のレパートリーから,《春香伝》《沈清(しんせい)伝》《興夫伝》などの傑作が生み出された。李朝小説で現伝するものは400種を下らないが,そのほとんど全部が作者と製作年代が明らかでない。また勧善懲悪とハッピーエンドで終わり,伝奇性が強い。しかしパンソリ系統の小説は,俗語をふんだんに取り入れ,その描写も写実的であり,風刺と諧謔に富む。漢文小説の中では,宮女と士の情死を描いた《雲英伝》がテーマと技法の点で注目され,また実学の巨匠朴趾源(ぼくしげん)の作品(《両班伝》など)は両班階級自身の内部告発の小説である。ハングル文学には,このほかに《閑中録》などの日記文学があり,李朝女流文学に光を添えている。
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朝鮮の近代文学は発生とほぼ時を同じくして日本の植民地支配下におかれたために,その姿はゆがめられざるをえず,その歪みを修復しようと,近代的志向をもつと同時に民族主義的・反帝国主義的性格を帯びることとなった。近代文学の出発点をどこに置くかについて異論はあるが,19世紀末・20世紀初頭とするのが通例である。20世紀初頭の開化期にあっては〈唱歌〉〈新体詩〉〈新小説〉が一世を風靡した。新小説とは,自主独立・近代的教育の必要性を説いた李人稙の《血の涙》(1906),因習打破・婦権拡張を説いた李海朝の《自由鐘》(1910)などをはじめ,社会的問題をテーマにして1916年ころまで書かれた一群の小説をさし,思想面でも文体面でも未熟ではあったが,4・4調や4・3調等で新しい社会事象をうたった唱歌,旧来の定形詩の枠を打ち破った新体詩と並んで,朝鮮に近代文学の萌芽をもたらしたものといえる。次に登場するのが李光洙崔南善(さいなんぜん)である。彼らは《少年》《青春》誌などを通じ言文一致の文体によって民族意識と啓蒙意識に支えられつつ新文学の道を切り開いていった。初期の李光洙にはトルストイ的な理想主義に立った民衆の教化者としての自覚があった。1919年の三・一独立運動の前後に金東仁,朱耀翰らの《創造》(1919年2月~21年5月),金億,廉想渉(れんそうしよう)らの《廃墟》(1920年7月~21年1月),朴鍾和,洪思容らの《白潮》(1922年1月~23年9月)といった文学同人誌が出現し,李光洙流の啓蒙主義に反発して自然主義と浪漫主義の旗印をかかげた。そうしたなかから,理想を追うよりも暗い現実を直視し,その変革を示唆する批判的リアリズムの文学があらわれた。韓国ではこれを〈新傾向派文学〉と呼び,共和国では〈初期プロレタリア文学〉と呼んでいる。これが世界プロレタリア文学運動の影響もうけて,朝鮮でも1925年に朝鮮プロレタリア芸術同盟(略称カップ)が結成され,一時は文学界を席巻するほどの勢いをみせた(1935解散)。農村の階級分化と農民の闘いを描いた李箕永(りきえい)の長編《故郷》(1933),紡績工場の労働闘争を描いた韓雪野の長編《黄昏》(1936)などが代表的作品といえる。いっぽう階級的立場に立たない民族主義的な作品傾向も根強く存在し,プロレタリア文学と拮抗しつつ,ともに日本の支配に抵抗した。農村啓蒙運動に題材をとった李光洙の長編《土》(1932),趙家3代の没落過程をリアルに描いた廉想渉の長編《三代》(1931)などがその代表作といえよう。この両者にはさまれてモダニズム文学が小さく息づいていたのが,1930年前後の朝鮮文学の様態であった。

 1931年に満州事変が起こり朝鮮国内への弾圧が厳しくなると,プロレタリア文学は壊滅状態となり,プロレタリア文学派も民族主義文学派もともに狂暴な日本支配のもとに呻吟せざるをえなくなった。現実政治への関与を避けて土俗的リリシズムや愛欲の美学を追い,風俗小説,歴史小説にもぐりこむ傾向があらわれたりした。しかしながら,この時期に文学は個々人の内面に立ち向かい,文章は彫琢され芸術的香りの高い作品が生まれたのも確かである(李泰俊李孝石ら)。日中戦争以後は皇民化政策のもとで創氏改名が強行され,〈国語〉と称する日本語によって〈時局〉的な作品を書くよう強要された。一部の文学者は獄中で殺され,また一部の文学者は総督府に迎合する作品を書いたりしていわゆる〈親日文学〉も生まれたが,多くの文学者はその中間で,沈潜した身辺雑記など朝鮮語で作品を書くこと自体を課題としたり,せめて日本語でなりとも朝鮮の風物誌を書き残したりして嵐をやりすごそうとした。〈地方色〉に名をかりて〈民族色〉を保持する試みもおこなわれた。

1945年解放を迎えた朝鮮はやがて米ソによって38度線を境に南北に分断され,文学もそれぞれ別途の発展の道をたどることとなった。大韓民国の文学は朝鮮戦争(1950-53)の傷痕を克服できるか否か,という問いから出発しなければならなかった。西欧の実存主義がとりいれられ,戦後の挫折感や虚無意識とないまぜにされたのが50年代文学の顕著な現象の一つであった。孫昌渉,徐基源,朴淵禧らが50年代文学の主な担い手であった。1960年に李承晩政権を倒した四月革命は単なる政治変革にとどまらず,民衆にみずからが歴史の推進者たることを認識させ,文学行為もせまい文壇の枠内にとどまらなくなった。60年代以降の韓国文学は,文学の社会参与をめざす参与文学派が,文学から政治性を排除しようとする純粋文学派に闘いをいどむといった対立構造を基本的に保ちつつ,作品の形態としては従来の短編中心から抜け出て,中編・長編中心となり,読者層も飛躍的に増大し,文学雑誌も政治的・経済的理由でなんども廃刊の目にあいながらも,現在でもなお《現代文学》《韓国文学》など数誌が競合している。文学は演劇とともに民衆との距離を着実に縮めつつあるといえる。テーマも多様化しており,金東里のように土俗の美をえがくもの,キムジハ(金芝河)のように都市と農村の社会的矛盾をえがくもの,趙世煕のように労働問題をあつかうもの,朴泰洵のように強引な近代化と物質万能主義に懐疑をなげかけるもの,尹興吉のように南北分断状況を自己の痛みとしてうけとめるものなどさまざまであるが,概して韓国の作品は日本の風俗小説や私小説的なものは少なく,広義におけるモラル,人間いかに生きるべきかという問いを追求する太い骨格をもっているといえよう。

 一方,朝鮮民主主義人民共和国の文学は民衆を革命的世界観と共産主義思想で武装させるための教科書としての役割を担っている。解放後終始金日成主席の文芸理論が指針とされてきたが,1960年代前半まではいくつかの文芸思想闘争を経ねばならず,林和,韓雪野など著名な文学者たちも何人かその名を消していった。創作方法としては社会主義リアリズムが採られ,思想性と芸術性の有機的結合が要求されている。文学の主要なテーマとしては,抗日武装闘争期の革命家の不屈の闘争,社会主義建設の英雄的人物像,祖国統一のための闘争などがあげられる。1960年代後半からは,金日成主席をはじめとする主席一家の人々に対する深い敬愛の念を捧げる内容の作品が大量に出現している。小説,詩のほかにも大型の歌劇芸術が,その人民性と民族性と大衆性のゆえに広く人気を博している。
朝鮮演劇

全体的にみれば日本人の朝鮮文学への関心はきわめて低い。そしてその低い関心が広義での政治状況に左右されているといえる。近代文学についてみると,1904年以降,総督府とその周辺の民間団体によって紹介されたのが第1系列とすれば,それは統治のために必要な政治経済等への関心に付随したものであって,民謡,民話,古典等が多かった。ただその系統の中から,のちの京城帝国大学の研究につながる学術的なものも出てくる。1922年から日本語による紹介量がやや増加し,さらに1934年から39年にかけてかなりふえるのは,前者は国際的プロレタリア文学運動の高まりに刺激されたものであり,後者はプロレタリア文学壊滅後に朝鮮人が日本語によってでも民族の文化を伝えようとしたものであって(金史良金素雲ら),いずれも朝鮮人の手になるものが大多数であった。これが第2系列といえる。さらに40年以降は朝鮮人文学者の日本語活動がはんらんするが,これは日本の〈国語〉創作奨励策の一環であって日本文学界にはあまり影響をもたらさなかった。

 1945年の終戦直後から戦後民主主義の波にのって北朝鮮,朝鮮民主主義人民共和国の作品が堰を切ったように紹介された。だが1965年の日韓条約締結を境に南北文学の位置が逆転し,韓国の文学が,硬直化した共和国の文学を圧倒するようになり,80年代に入ると紹介・研究の量的急増はブームに近い状況を呈している。60年代後半になると従来の朝鮮人の手になるもののほかに,日本人による研究や翻訳も始まり,70年には日本人だけの同人誌《朝鮮文学--紹介と研究》が発刊され,70年代後半には日本各地の大学に朝鮮語・朝鮮文学関係の学科や講義科目が相ついで設置され,外国文学としての本格的研究がようやく緒についたといえよう。近年の日本側からの韓国の文学への関心は,政府の強権のもとに苦悩する反体制文学者に共感を寄せる傾向と,韓国の文学をあるがままに実物大にとらえようとする傾向との二つがあるといえる。なお,在日朝鮮人の文学については〈在日朝鮮人〉の項目を参照されたい。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝鮮文学」の意味・わかりやすい解説

朝鮮文学
ちょうせんぶんがく
Korean literature

朝鮮民族による文学作品の総称。朝鮮民族は古くから固有の言語をもっていたが,それを表現するための文字がつくられたのは,はるか後代のことである。すなわち 15世紀中期に朝鮮民族固有の文字ハングルがつくられるまでは,古くは中国の伝統的な漢文体で,次に漢字の音と訓を使ったさまざまな記述法で表記され,これらはハングルが制定されたのちも 20世紀にいたるまで用いられ続けた。
朝鮮最古の文学のジャンルはおそらく詩歌で,前 57年以前にまでさかのぼる。古代の詩歌は農耕や信仰をテーマとし,人間と自然との近しい関係を描いた。三国時代になると漢文の普及や仏教の伝来など,中国の影響を受けながら次第に洗練されたものへと変化していった。祭典儀式などの集団舞踊に伴う歌謡は,個人的,個性的な感情の表現に取って代られた。また文学に登場する英雄も,部族的なものから,個々の人間へと変化した。7世紀中期に新羅が百済と高句麗を吸収し,安定した政治体制が確立すると,中国へ送り込まれた多くの留学生が,朝鮮へ豊かな文化を持帰った。この頃,最も高度に発展した文学は郷歌 (ヒャンガ) と呼ばれる短い詩で,主として 10句体から成る繊細かつ神秘的なスタイルをもち,その主題は仏教思想の影響を受けて来世を強調したものであった。最初期の散文作品は,日月神話,国王神話,森羅万象にかかわる伝説や,英雄,予言,夢,動物などに関する説話であった。これらの口承文芸は,バラッド,伝説,仮面劇,人形劇,パンソリなど,いろいろな形で何世代にもわたって人々の口から口へと伝えられた。
高麗時代 (935~1392) には,土着の神や仏陀を崇拝する大規模な祝祭舞台のための別曲 (ピョルゴク) と呼ばれる新しい詩型が生れた。またこの頃には神話や伝説,仏教の歴史などに基づいた叙事文学も盛んになった。 12世紀に完成された時調 (シジョ) は,朝鮮の詩歌文学のなかで最も長い歴史をもつ代表的なジャンルで,現在でも創作が続いている。時調は朱子学の価値観を表現することが多い3行詩であるが,自然や愛を扱う場合もある。時調とともに,歌辞 (カサ) と呼ばれる長詩型のジャンルがつくられ,教訓,紀行,個人の境遇についての嘆きなどが歌われた。朝鮮王朝前期 (1392~1598) には,世宗 25 (1443) 年のハングルの制定によって,朝鮮文学は中国語への文化的な依存状態から脱却した。許 筠 (きょきん) の『洪吉童伝』は,最古の本格的なハングル小説として知られる。時調はこの頃最盛期に達し,その表現力の豊かさと深い抒情性から,庶民にまで広く流行した。伝統的な朝鮮文学のジャンルの例にもれず,時調も歌辞も特定の種類の音楽に合せて歌われ,それぞれ重要な音楽ジャンルの一つともみなされている。
日本の朝鮮侵略 (1592~97) が失敗に終ったのち,文学の中心は散文へと移った。朝鮮王朝後期 (1598~1894) には,儒教に代って実証的な理想主義が登場した。貴族社会を背景にした作品や古い詩型にあきたらなくなった人々は,散文形式の物語を喜んで受入れた。『春香伝 (しゅんこうでん) 』『沈清伝 (しんせいでん) 』『興夫伝 (こうふでん) 』などの当時人気のあった作品は,いずれも庶民を描いた作者不詳のものである。新小説は,高宗 31 (1894) 年の甲午の改革以前の古典小説と,イ・グァンス (李光洙)以降の近代小説との間の過渡期にあたるもので,勧善懲悪,偶然性による話の展開,完全な散文体 (古典小説では部分的に韻文が使われていた) がおもな要素である。
日本の支配下におかれてからは,文学活動も抑圧され,民族文学,プロレタリア文学,モダニズム,純文学など諸流派が混交したが,いずれも程度の差こそあれ,反日的色彩を含むものであった。その後,意識の流れを描くなどの西欧文学の技巧を取入れた朝鮮文学は,1930年代に成熟の時を迎えた。この時期のチョン・ジヨン (鄭芝溶)の詩や李孝石の小説の詩的な表現は,詩における朝鮮語の可能性を顕著に示している。第2次世界大戦中には日本のきびしい弾圧を受けたが,45年の民族解放とともに,30年代の成果を土台に再出発した。しかし朝鮮戦争 (1950~53) の勃発で,安定しつつあった文学界は再び混乱し,戦後の文学は民族の南北分断に大きく影響され,作家たちは個人のアイデンティティとともに国家のアイデンティティをも追求することとなった。

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