1331年から1869年の東京遷都まで歴代天皇が住み、儀式や公務を行った場所。794年に桓武天皇が平安京(京都市)へ遷都した当初は約2キロ西方だったが、火災などで度々焼失。貴族の邸宅だった現在地に復興された。1854年の嘉永の大火でもほぼ全焼、現存する建物の多くが55年に再建された。現在は皇室用財産として宮内庁が管理し、通年公開(毎週月曜と不定期の休止日あり)している。参観無料、事前申し込み不要。職員による日本語、英語、中国語の案内も。参観可能な日時などは同庁ホームページで確認できる。
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平安京の内裏は天徳四年(九六〇)九月二三日夜の炎上(日本紀略)以後たびたび罹災、その都度大内裏内の官衙、京中の後院や公家邸宅が仮御所として利用されたが、罹災と再建を繰返すなかで、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとして里内裏とされた。
「今内裏」(栄花物語巻二)といわれ、里内裏の初めとされたのが、円融天皇の用いた
一方本来の内裏は造営中の安貞元年(一二二七)四月二二日に類焼し(百錬抄)、以後再建されず、辺り一帯は荒廃し内野とよばれるようになる(増鏡)。
こうして鎌倉中期に至り里内裏が内裏そのものとなった。当時の里内裏は閑院であったが(玉葉)、正元元年(一二五九)五月二二日の焼亡(百錬抄)以後再建されず、そのため鎌倉後半期は再び各所の内裏(
元弘元年(一三三一)九月二〇日、持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が践祚・即位した、
この地は平安末期には藤原邦綱の邸宅(土御門東洞院邸)であった跡で(「山槐記」治承四年三月四日条)、のち後白河天皇皇女宣陽門院(勤子内親王)に伝領され、里内裏として使用されることもあった。
当時の所有者は勤子内親王の孫、陽徳門院子内親王(後深草皇女)であった。この頃紫宸殿と清涼殿は一つの建物を兼用され、小御所が発達していた(「門葉記」指図)。ただし政治的変動により、他所に遷御することもしばしばであるが、皇居としては当所以外には存在しない。
明徳三年(一三九二)閏一〇月五日に、南朝(後亀山天皇)より三種の神器が土御門殿に渡され(南山御出次第)南北両朝が統一されたことにより、最終的に当所に固定した。これが現在の京都御所のもとで、いまの京都御所の紫宸殿・清涼殿辺りが旧地であったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
明治の東京遷都以前の旧皇居で、京都市上京(かみぎょう)区にある。794年(延暦13)平安京が造営されて、皇居は京の中央北部の平安宮内の内裏(だいり)に設けられた。平安時代以来、内裏の罹災(りさい)の場合は臣下の邸宅を一時仮内裏として利用するのが常であって、これを里内裏(さとだいり)とよんでいる。現在の京都御所は、かつての里内裏の一つであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)の場所にあたる。1331年(元弘1)皇統が南北朝に分かれてから、土御門のこの場所は北朝歴代の皇居として利用されたため、南北朝合体以降はここが内裏として定着した。この土御門内裏も1401年(応永8)、1443年(嘉吉3)と焼亡、当時室町幕府の財政事情の悪化によって再建に手間どり、やがて応仁(おうにん)の乱を迎えて内裏を留守にしたため、その荒廃は著しかった。1569年(永禄12)織田信長が内裏復興に着手するが、まだ内裏は室町時代以来のものを踏襲しただけで、規模も1町四方ほどの狭いものであったらしい。その後豊臣(とよとみ)秀吉による天正(てんしょう)内裏、徳川幕府造営の慶長(けいちょう)内裏、寛永(かんえい)内裏と発展するが、1653年(承応2)、1661年(寛文1)、1673年(延宝1)、1708年(宝永5)、1788年(天明8)と、数度罹災を繰り返している。1789年(寛政1)、内裏の復興にあたった老中松平定信(さだのぶ)は、裏松光世(みつよ)(固禅)が著した『大内裏図考証』に基づいて、内裏を平安時代の旧規に部分的にも復古している。しかし、この内裏も1854年(安政1)に焼失、翌1855年に寛政(かんせい)造営のものをそのままに再建された安政(あんせい)内裏がいまの京都御所である。
京都御所は南北約450メートル、東西約250メートルの面積を占め、周囲は白い築地(ついじ)塀で囲まれる。南には建礼門(けんれいもん)が開かれ、門内正面には南庭(なんてい)を囲んで三方に承明門(しょうめいもん)、日華門(にっかもん)、月華門(げっかもん)の開かれる回廊があり、その中に紫宸殿(ししんでん)、北西に清涼殿(せいりょうでん)が建つ。紫宸殿の北東からは奥に小御所(こごしょ)、御学問所、常御殿(つねのごてん)が接続し、その東には池庭が設けられる。北方の独立した一画には、また皇后、若宮、姫宮の各御殿が建つ。京都御所の南東には大宮(おおみや)御所(1867創建)や仙洞(せんとう)御所(1852創建)があり、京都御所と一括して京都御苑(ぎょえん)とよばれる。御苑は環境省の管理下にあり、面積は約90万平方メートルに及ぶ。京都御所の周縁には、かつて有栖川宮(ありすがわのみや)、桂宮(かつらのみや)の宮家、近衛(このえ)、鷹司(たかつかさ)などの五摂家をはじめとする公家(くげ)の住宅が建ち並んでいたが、いまは一面の苑地に変わって昔のおもかげがない。ただ、今出川通の北側に冷泉家(れいぜいけ)住宅(国重要文化財)が残されていて、わずかにかつてのたたずまいを伝えるだけである。
なお、現在は宮内庁京都事務所の管理下にあり、事前申込み不要の通年公開となっている(休止日はあり)。
[工藤圭章]
『藤岡通夫著『美術文化シリーズ 138 京都御所』(1967・中央公論美術出版)』
京都市上京区京都御苑にある旧皇居。1337年(延元2・建武4),北朝の光明天皇のとき里内裏の土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を皇居と定めたことに始まる。1869年(明治2)東京奠都(てんと)まで歴代天皇の内裏として同じ位置にあったが,御所敷地の規模は後世の再建・造替のたびに拡張された。室町時代には1401年(応永8)と43年(嘉吉2)に焼失し再建されており,1569年(永禄12)より織田信長が大修理を実施し,91年(天正19)に豊臣秀吉が新殿に造替した。江戸時代には徳川家康が1611年(慶長16)造替に着手,13年に完成したのを初例に前後8回の造替・再建が幕府によって実施された。現在の御所は1854年(安政1)に焼失後,翌年3月に着手し8ヵ月後に完成をみたもので,東京奠都後および戦時下の疎開で付属殿舎を解体撤去したが,主要殿舎は今に存続している。築地塀で囲まれた境域は南北447m,東西は南辺で250m,北辺で236mの長方形をつくる。南辺中央に建礼門,西辺南より北へ宜秋門,清所門,皇后宮門の3門,北辺に朔平門,東辺南寄りに建春門の計6門を開いている。築地内の殿舎は南,中,北の3ブロックからなり,南ブロックは紫宸殿とその南庭が中心で,南庭の東,南,西3辺を回廊で囲み,東に日華門,南に承明門,西に月華門の3門を開き,日華門北に宜陽殿を配置する。紫宸殿北西に清涼殿が所在し,殿上を経て紫宸殿と長橋で結んでいる。この南ブロックの殿舎・諸門の規模と形式は1790年(寛政2)再建のときに,裏松光世(固禅)の《大内裏図考証》に基づき,平安時代内裏の古制を採用復活したが,1855年再建の現存殿舎にも踏襲された。中ブロックは東方の庭池に面して小御所,御学問所,御三間,常御殿の奥向殿舎からなり,格調の高い書院造につくる。常御殿の北方の遣水の流水と樹木の間に迎春殿,御涼所,茶室聴雪,地震御殿(泉殿)が間くばられ,瀟洒(しようしや)な数寄屋造からなる。北ブロックは後宮関係の殿舎で占めていたが,大半が取り払われ現存するのは皇后御殿,若宮・姫宮御殿,飛香(ひぎよう)舎の3殿である。現在,宮内庁京都事務所が管理する。
執筆者:川上 貢
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[都市としての発展]
平安京を舞台に貴族政治が展開し,王朝文化が開花したが,今日,市中には王朝の遺構はほとんど残っていない。京都御所は本来の内裏ではなく,960年(天徳4)を初度として内裏がたびたび罹災したことで利用された里内裏の一つ,東洞院土御門殿の後身であり,現在の建物は,江戸後期,松平定信により古制に戻して再建された寛政度造営内裏をもとに,1855年(安政2)につくられたものである。摂関家によって東京極の東(京外)に造営された法興院や法成寺なども遺構をとどめず,ただ醍醐寺五重塔とか宇治平等院鳳凰堂などが周辺地域に残っているにすぎないが,葵祭などに王朝の風流をしのぶことができよう。…
…しかし1336年(延元1∥建武3)富小路内裏が戦火により焼亡し,後醍醐天皇が吉野に南遷するや,北朝では持明院統に伝領された土御門(つちみかど)東洞院殿を歴代の皇居とした。
[京都御所]
この土御門内裏は戦国時代の荒廃を耐えぬいて,織田信長,豊臣秀吉の修営工事により拡張整備され,さらに江戸時代に入って,将軍徳川秀忠の女和子の入内を機に大規模な増築工事が行われ,中世的な里内裏から近世的な御所へ脱皮した。この御所はその後数度の火災に遭ってそのたびに再建されたが,1790年(寛政2)の造営に当たっては,総奉行松平定信が紫清両殿以下の表向き殿門の古制復興に努めた。…
※「京都御所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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