深沢城(読み)ふかさわじょう

日本の城がわかる事典 「深沢城」の解説

ふかさわじょう【深沢城】

静岡県御殿場市にあった岡城。抜川と宮沢川が合流する台地突端に築かれていた崖端城である。もともと葛山氏庶流の深沢氏の城館があったと推定されている場所に、16世紀初頭、今川氏親が駿河と甲斐・相模の国境地帯や足柄街道を守る城として築いたといわれる。1568年(永禄11)、武田信玄は今川氏が拠点としていた駿河府中を攻め、今川氏真を掛川城(掛川市)に追い落とすと、深沢城は武田氏が支配するところとなった。その直後、武田氏と北条氏が交戦状態に入り、1570年(元亀1)に、北条氏康・氏政父子が3万8000の大軍をもって深沢城を攻め陥落させ、北条綱成(ほうじょうつなしげ)を城将とした。しかし、同年の暮れには武田軍が大軍で同城を包囲、綱成に「深沢城の矢文」といわれる降伏勧告を送るが、綱成がこれを拒んだことから、武田氏は金山衆を動員して坑道を掘り、城壁を崩す作戦に出た。綱成は、これにより城を武田氏に明け渡し、玉縄城(神奈川県鎌倉市)に退去した。武田氏はその後、深沢城を丸馬出のある武田流の城郭に大改修した。1582年(天正10)、織田信長徳川家康らが甲斐国に侵攻して武田氏を滅ぼすと、武田方の深沢城主・駒井昌直(こまいまさなお)は城を焼いて退去、その後は徳川氏の支配するところとなった。その後、深沢城は徳川氏の城として再興され、北条氏への押さえの城となったが、1590年(天正18)に北条氏が滅亡し、徳川家康が関東へ移封になると、深沢城はその役割を終え廃城になった。現在、城域の大部分農地山林になっており史跡公園として整備されているわけではないが、武田氏が築いた丸馬出やその前面の三日月堀などの遺構が残っており、土地所有者により見学路が整備されている。JR御殿場線の御殿場駅から徒歩約30分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の深沢城の言及

【御殿場[市]】より

…古代末から中世にかけて伊勢神宮領大沼鮎沢御厨(みくりや)の内にあり,鎌倉幕府の御家人大森氏一族が強大な勢力を誇っていた。戦国時代には今川氏の勢力圏に入り,大森氏の一族葛山氏が深沢城に拠って支配したが,今川氏滅亡後,後北条氏と武田氏の抗争の舞台となり,1571年(元亀2)深沢城は武田氏の手に落ちた。近世は1633年(寛永10)以後,一時期を除いて小田原藩領で新田の開発が盛んとなり,印野,竈(かまど)新田などが開かれた。…

※「深沢城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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