深草村
ふかくさむら
[現在地名]伏見区深草〈鐙ヶ谷町・池ノ内町・飯食町・石橋町・今在家町・馬谷町・越後屋敷町・扇ヶ原町・大島屋敷町・加賀屋敷町・兜山町・枯木町・川久保町・瓦町・キトロ町・霧ヶ谷町・鞍ヶ谷町・ケナサ町・小久保町・極楽寺町・極楽寺山町・五反田町・紺屋町・佐野屋敷町・柴田屋敷町・白砂・真宗院山町・神明講谷町・新門丈町・ススハキ町・砂子谷町・墨染町・石峯寺山町・関屋敷町・仙石屋敷町・善導寺町・僧坊町・僧坊山町・大門町・谷口町・田谷町・町通町・塚本町・出羽屋敷町・東軸町・砥粉山町・中ノ郷山町・中ノ島町・西飯食町・西浦町一丁目―八丁目・西伊達町・西出町・西出山町・野田町・野手町・東瓦町・東伊達町・泓壺町・藤森町・フチ町・坊町・宝塔寺山町・坊山町・堀田町・宮谷町・向ヶ原町・向畑町・綿森町・ヲカヤ町〉
北は稲荷村、東は深草山を介して山科(現山科区)、南は大亀谷村・伏見町、西は竹田村に接する。村のほぼ中央を伏見街道が走る。
古代紀伊郡深草郷(和名抄)の地。深草の地名は既に「日本書紀」欽明天皇即位前紀に「山城国紀郡深草里」とみえ、同書皇極天皇二年一一月一日条によれば「深草屯倉」があったことが知られる。屯倉の設置時期は不明であるが、当地が六世紀頃には既に山城国の要地として重要視されていたことをうかがわせる。また深草の地が古くから開発されていたことは、谷口遺跡・深草遺跡の存在からも証される。
深草の地は、前引「日本書紀」欽明天皇即位前紀の記述や、延暦一九年(八〇〇)六月二一日付山城国紀伊郡司解案(仁和寺文書)・弘仁八年(八一七)八月一一日付山城国紀伊郡司解案(同文書)・長徳三年(九九七)五月二〇日付内蔵貴子解(三条家本北山抄裏文書)等からも知られるように、嵯峨野(現右京区)と並んで古代における秦氏の拠点地域であった(→深草郷)。
また深草は、「類聚国史」には延暦一一年八月四日に「禁葬埋山城国紀伊郡深草山西面、縁近京域也」とあって、葬地として使用されていたことが理解されるが、このことは、番神山古墳・けんか山古墳・仁明陵北方古墳・砥粉山古墳群など多くの古墳の存在からも確認される。
深草村
ふかくさむら
[現在地名]一宮町深草
草加南村の南にあり、西は海に面する。南方の愛宕山西側の山裾が海岸へ急傾斜で落ちる。草加南村から南の米山村(現五色町)へ向かう道が通る。永和三年(一三七七)と推定される二月一九日付の京都東福寺僧明尚が淡路国守護代に宛てた書状(九条家文書)に「つしのかうふかくさこみやまの事、ちとう一ゑんのよし申され候」とあり、当地は東福寺領津名郡都志郷(現五色町)地頭方に含まれていた。至徳三年(一三八六)九月一七日の都志郷地頭方内検目録(同文書)には「新々田」三反半一〇歩(損田一反小二〇歩・得田二反五〇歩、分米六斗四升二合)について「深草村先勘在之」とみえ、応永二年(一三九五)九月日の同内検目録(同文書)には新々田九〇歩は「応永二年興之取出 深草村」とあり、「分米七升五合 一斗代 単定」とある。文明年間(一四六九―八七)前後のものと思われる、庄主永定から東福寺の納所に宛てられた八月二八日付書状(同文書)に「深草と申在所者、廿四五石之公平にて候か、三分一も御年貢候ハんかと存候、其外里者、十分一も候ハんかと存候」とあって、当時厳しい日照りのため、百姓が逃散するなど都志郷の経営は危機に陥り、年貢は一〇分の一取れるか取れないかの状態であったが、深草は例外的に二四、五石の年貢のうち、三分の一の収取が可能であったことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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