中山道(読み)ナカセンドウ

デジタル大辞泉 「中山道」の意味・読み・例文・類語

なかせん‐どう〔‐ダウ〕【中山道/中仙道】

江戸時代五街道の一。江戸の日本橋から高崎下諏訪木曽谷を経て近江おうみ草津東海道と合し、京都に至る。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「中山道」の意味・読み・例文・類語

なかせん‐どう‥ダウ【中山道・中仙道】

  1. 東山道の中央部を縦貫する街道。江戸時代には五街道の一つに数えられ、江戸日本橋から上野・信濃・美濃・近江の五か国を経由して草津に至り、東海道に合流して京都に至る。木曾十一宿を経るため木曾路・木曾街道とも呼ぶ。碓氷・福島に関所が置かれていた。宿駅は板橋・蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄・新町・倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本・軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田・塩名田・八幡・望月・芦田・長久保・和田・下諏訪・塩尻・洗馬(せば)・本山・贄川(にえかわ)・奈良井・藪原・宮ノ越・福島・上松(あげまつ)・須原・野尻・三留野(みどの)・妻籠(つまご)・馬籠(まごめ)・落合・中津川・大井・大久手・細久手・御嶽(みたけ)・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡(こうど)・美江寺・赤坂・垂井・関ケ原・今須・柏原・醒ケ井・番場・鳥居本・高宮・愛知川(えちがわ)・武佐・守山の六七駅。東山道。
    1. [初出の実例]「中山(ナカセン)道を経てや下る」(出典:太平記(14C後)三五)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「中山道」の解説

中山道
なかせんどう

江戸時代の五街道の一。岐阜県の南部を東西に貫き、可児かに御嵩みたけ町以西は国道二一号、恵那市以東は国道一九号にほぼ沿っている。当初中仙道とも記された。享保元年(一七一六)東山道の内の中筋にあたるため中山道と書くよう改められた(五街道宿御取扱筋秘書)。木曾路ともよばれた。江戸日本橋を起点とし、武蔵板橋いたばし宿(現東京都板橋区)より上野・信濃・美濃を経、近江守山宿まで六七宿。同草津宿・大津宿を経て京都に至る。美濃国では東から落合おちあい・中津川(現中津川市)大井おおい(現恵那市)大湫おおくて細久手ほそくて(現瑞浪市)、御嵩・伏見ふしみ(現御嵩町)太田おおた(現美濃加茂市)鵜沼うぬま(現各務原市)加納かのう河渡ごうど(現岐阜市)美江寺みえじ(現本巣郡巣南町)赤坂あかさか(現大垣市)垂井たるい(現不破郡垂井町)、関ヶ原・今須います(現同郡関ヶ原町)の一六宿であった。道筋は岐阜県においては古代東山道に近く、一部重なるところもみられうえ街道ともよばれた。落合から今須までの道程は約三〇里で、宿間は平均約二里。

慶長七年(一六〇二)徳川家康により東海道の裏街道として、また中部山岳地帯を支配するため、宿駅が整備され伝馬制が布かれた。同年の御嵩宿伝馬朱印状(野呂文書)によれば、伝馬朱印なく人馬継立を強要するものは、郷中の者が殺してもよく、それができない場合は主人の名を聞いて届出よという厳しいものであったが、伝馬制草創の頃の様子がうかがわれる。同年大久保長安ら四奉行から御嵩宿に宛てた定書が出され、翌八年の長安による五ヵ条の定書によれば、一宿の伝馬数はいちおう二五疋と定められている(「伝馬定書」同文書など)。もっとも六七宿すべてが同時に整備されたのではない。美濃では大湫宿が慶長九年、細久手宿が同一五年に立てられており、中山道六七次というように整備されたのは、寛永年間(一六二四―四四)のこととされる。距離的には東海道の一二六里余に対し、中山道は一三九里余と長い。峠道も多く、とくに冬の往来は困難であった。しかし、貝原益軒の「木曾路之記」には箱根のような長い険しい坂がない、川留や渡海の心配はなく、宿でのもてなしがよい、宿の什器類も清潔である、山・川・林など景色がよく、人・馬の力が強いなどと褒めている。

〔おもな通行〕

中山道は緋の道・姫街道ともいわれ、京都の姫宮が将軍家へ降嫁する際しばしば利用された。九代将軍へ伏見宮の比宮、一〇代将軍へ閑院宮の五十宮、一二代将軍へ有栖川宮の楽宮、一三代将軍へ鷹司家の有姫、一条家の寿明姫、一四代将軍へ仁孝天皇の皇女和宮が知られる。


中山道
なかせんどう

江戸時代の五街道の一。江戸日本橋から北武蔵・上野国・信濃国・美濃国を通り、近江国草津くさつ宿(現滋賀県草津市)で東海道と合する六七宿・一二九里余の街道。江戸から最初の宿駅である板橋いたばし宿(現東京都板橋区)を過ぎ、荒川を船渡しで越えた下戸田しもとだ(現戸田市)が現埼玉県域の始点となる。これより蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄の九宿を経て、神流かんな川境の勅使河原てしがわら(現上里町)まで一九里九町余であった。神流川は歩行渡しで、次宿は上野国新町しんまち宿(現群馬県新町)。中山道は古代の官道である東山道と同一の地域を通るが、道筋は必ずしも一致しているわけではない。現埼玉県域の道筋は戦国末期に成立していた宿駅を通っており、当時通じていた道路を基にして江戸時代に整備されたものである。信濃国木曾きそ地方を通るため木曾街道・岐岨路などとも称されたが、一般的には中仙道または仲仙道とも記している。江戸時代初期には公用文書でも様々な文字をあてているが、幕府は正徳六年(一七一六)に「ナカセンド」と読み、中山道の文字をあてることを触れている(御触書寛保集成)。しかし必ずしも徹底されたわけではなく、仙の文字を用いるなど混用は現在にまで及んでいる。なお中山道の現県域内の道筋は大略国道一七号に引継がれている。

〔宿駅の成立と初期の街道〕

天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入国後、家臣の松平(東条)家忠はおし(現行田市)を預かり近傍の地に一万石を領するが、江戸と忍の往来の途次浦和宿などに宿泊・休憩している(家忠日記)。これらの記録からみて、すでに小田原北条氏領国時代に中山道筋に馬継場が設けられており、徳川氏はこれを利用したものと思われる。また文禄二年(一五九三)五月五日、伊奈忠次は鴻巣御殿の敷地の年貢免除を土豪小池隼人助に行っているが(「伊奈忠次鴻巣御殿屋敷引手形写」武州文書)、これは鴻巣宿を旧来の所在地である本宿もとじゆく(現北本市。「元鴻巣」といわれた)から移転させる一連の動きの先駆になったものである。元鴻巣は小田原北条氏の時代の馬継場であったが、徳川氏の支配下で伊奈氏が街道と宿駅の整備を行った事例の一つである(風土記稿)。関ヶ原合戦後、徳川氏は全国的な交通網整備に着手するが、慶長六年(一六〇一)一月に東海道諸宿に伝馬定書を下し、翌年には中山道の諸宿に下している。同年六月一〇日付の熊谷宿への駄賃定書(熊谷市史)によると、荷物一駄四〇貫につき深谷宿への駄賃は永楽銭八文、鴻巣宿へは一二文となっている。


中山道
なかせんどう

江戸時代の五街道の一で、東海道に次ぐ重要な街道であった。「木曾路名所図会」に「東仙道岐蘇路、俗に中山道といふ、南に東海道あり、北に北陸道あり、その中にあれば如く名づくるなり」と記される。東海・北陸二道の中にあり、しかも山中である木曾路を通過するので木曾街道などともよばれた。安藤広重・渓斎英泉が「木曾街道六十九次」の道中を描いている。表記は中山道・中仙道の二様が用いられたが、正徳六年(一七一六)四月中山道に定められた(五街道宿御扱秘書)

江戸日本橋を起点に板橋いたばし宿(現東京都板橋区)を第一の宿とし、武蔵・上野・信濃・美濃を経、近江守山もりやま宿(現滋賀県守山市)を通って草津くさつ宿(現同県草津市)で東海道に合流、大津おおつ(現大津市)を経て京都に至る。板橋から守山まで六七次、草津・大津を加えると六九次あった。江戸から一〇番目の武蔵国本庄ほんじよう宿(現埼玉県本庄市)から神流かんな川を渡ると上野国で、一一番目の新町しんまち宿(現多野郡新町)から倉賀野くらがの宿(現高崎市)、高崎宿(現同上)板鼻いたはな宿(現安中市)、安中宿(現同上)松井田まついだ宿(現碓氷郡松井田町)坂本さかもと宿(現同上)まで、上野には七宿が設置された。新町宿のからす(柳瀬川)渡船で北岸(左岸)に渡り、高崎宿までは左岸に沿い、高崎城下で同川を西に渡り同川支流の碓氷うすい川に沿って西行した。一七番坂本宿から碓氷峠越で信州軽井沢かるいざわ宿(現長野県北佐久郡軽井沢町)に続く。この間倉賀野で日光例幣使街道、高崎城下で三国街道、豊岡とよおか(現高崎市)大戸おおど(信州道)を分岐した。

中山道の前身である東山道は信濃国長倉ながくら(現軽井沢町)から上野国坂本駅に至るが、坂本から板鼻と高崎の間辺りまではほぼ中山道の北側を通ったと推定されている。倉賀野宿は鎌倉時代から、武蔵国を経て信州善光寺に詣でる道筋の宿として知られていたが、天正一〇年(一五八二)閏一二月二六日には「倉賀野町人中」宛に北条氏から倉賀野伝馬掟(堀口文書)が出されている。板鼻宿も東道(東山道)や、信州から武蔵を経て鎌倉に向かう鎌倉街道の交差する交通の要衝で、同一一年六月四日の「上宿町人衆中」に宛てた掟書(「北条氏邦印判状」福田文書)がある。安中宿でも同一八年箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)に入封した井伊直政により、伝馬規定(須藤文書)が定められた。また、文禄三年(一五九四)に松前慶広が豊臣秀吉から蝦夷地を与えられ、北陸道の駅伝馬通行を許されたときの「松前蝦夷地御用留」によると、板橋から中山道を通り、小諸こもろ(現長野県小諸市)で北陸道へ分れており、これらの史料からみて、中山道の宿駅・伝馬の制度は戦国末期にはほぼ原型ができあがっていたと考えられる。


中山道
なかせんどう

古代東山道を継ぐ道筋で、江戸時代には五街道の一。古代東山道は、鎌倉時代に中世東海道と定められ、京都と鎌倉を結ぶ主要路となった。なお中山道は当初中仙道とも記されたが、享保元年(一七一六)改められた(五街道宿御取扱筋秘書)

〔中世東海道〕

「吾妻鏡」文治元年(一一八五)一一月二九日条に「二品被定駅路之法(中略)伊豆駿河以西、迄于近江国、不論権門庄々、取伝馬、可騎用之」とあり、鎌倉幕府が東海道の駅路制を制定したことが知られる。建久元年(一一九〇)源頼朝の最初の上洛コースは、美濃青墓あおはか(現岐阜県大垣市)・近江柏原かしわばら(現坂田郡山東町)野路のじ宿(現草津市)をたどる新東海道で(同書同年一一月二日条)、同六年の上洛の際にもかがみ(現蒲生郡竜王町)に宿陣し、勢多せた橋を通過している(同年三月四日条)。旧東海道も相応の交通量を有したろうが、仁治三年(一二四二)成立という「東関紀行」や弘安二年(一二七九)訴訟のため鎌倉へ下った阿仏尼の「十六夜日記」には、野路・守山・鏡、小野おの(現彦根市)醒井さめがい(現坂田郡米原町)などの宿としての発達ぶりがうかがえる。こうした進展を経て「実暁記」には京から鎌倉までの宿次次第として六三宿があげられ、うち近江には大津・勢多(現大津市)、野路・守山・鏡、武佐むさ(現近江八幡市)蒲生野がもうの愛智河えちがわ(現愛知郡愛知川町)四十九院しじゆうくいん(現犬上郡豊郷町)、小野、馬場ばんば(番場、現米原町)、佐目加井(醒井)・柏原がみえ、のちの中山道の宿の原型が認められる。

元弘三年(一三三三)五月足利尊氏に攻められて京を追われた六波羅探題北条仲時一行は、その退路を京極導誉の率いる軍勢に断たれ、番場で自害している。往来の多かった街道筋には愛知川南宿領内五日市や、蒲生郡小脇おわき(現八日市市)の八日市などの市庭が形成され、また正応二年(一二八九)当時遊女で賑う鏡宿の姿をも伝えている。


中山道
なかせんどう

慶長七年(一六〇二)、徳川幕府が制定した五街道の一つ。当初「中仙道」と記したが、享保元年(一七一六)「中山道」と書くよう改められた。「五街道宿御取扱筋秘書」に「中山道 只今迄仙之字書候得共、向後山之字可之」とある。江戸板橋いたばし宿を起点とし、近江の守山もりやま宿まで六七宿。信濃国内では碓氷うすい峠を越えて、軽井沢かるいざわ沓掛くつかけ追分おいわけ小田井おたい岩村田いわむらだ塩名田しおなだ八幡やわた望月もちづき芦田あした(以上佐久郡)長窪ながくぼ和田わだ(以上小県ちいさがた郡)下諏訪しもすわ(諏訪郡)塩尻しおじり洗馬せば本山もとやま(以上筑摩つかま郡)贄川にえかわ奈良井ならい藪原やぶはら宮の越みやのこし福島ふくしま上松あげまつ須原すばら野尻のじり三留野みどの妻籠つまご馬籠まごめ(以上木曾)の二六宿であった。

この道の沿革は古く、木曾谷を通じている個所は、和銅六年(七一三)六月、開通のみえている「吉蘇路きそじ(続日本紀)の路線をほぼ追っている。

この道筋には、中世から地方土豪が拠っていた館の近くに宿づくりをしていたものが多く、妻籠・須原・福島・奈良井・本山・塩尻・和田・長窪・芦田・望月・岩村田・小田井などはその例である。なお、塩尻・洗馬・本山の三宿は、初め中山道からはずされていたが、慶長一九年に至って正式に中山道の宿駅となった。

中山道は東海道とともに江戸と京都を結ぶ道であったが、東海道のほうが交通量が多く宿駅の規模も大きく、東海道が一二六里余、五三宿であったのに対し、中山道は一三九里、六七宿で、距離も長く、そのうえ、木曾路をはじめ峠道が多く、人馬の往来・継立てに困難であった。


中山道
なかせんどう

江戸時代、江戸と京を結ぶ街道として整備された。五街道の一つ。中山道六九次といわれるが、近江国草津くさつ宿(現滋賀県草津市)で東海道と合流しており、板橋宿より守山もりやま宿(現滋賀県守山市)までは六七宿、草津・大津の両宿を加えて六九次となる。中仙道とも記すが、幕府は正徳六年(一七一六)に中山道の文字をあて、「ナカセンドウ」と読むことを触出している(御触書寛保集成)。慶長七年(一六〇二)中山道の伝馬制度が制定され、翌八年に公布された伝馬定書で二五疋・一〇人を宿駅に常備することが義務づけられた。寛永一五年(一六三八)以降は五〇人・五〇疋と定められ、万治四年(一六六一)に一時半減されるが、寛文五年(一六六五)に従前の五〇人・五〇疋に復し、幕末までこの常備人馬を備えることが義務づけられた。なお慶長一五年には江戸から板橋宿までの上下駄賃が、一駄四五貫目につき三〇文と定められている(「規矩便覧」中山道交通史料)

慶長九年徳川家康は東海道・中山道・北陸道の道の両側に一里ごとに榎か松を植えた一里塚を造り、並木を植えるよう秀忠に命じている(徳川実紀)。道幅は同年に五間と定められて整備されたとされるが、文政九年(一八二六)には実際には二―四間ぐらいであったという(五街道取締書物類寄)


中山道
なかやまみち

沢根さわね(現佐和田町)の相川小路から相川町の海士あま町へ抜ける約三・五キロの旧道。標高約一六〇メートルの中山峠が頂上にあり、かつては沢根村と相川町のほぼ境界線をなした。寛永六年(一六二九)頃成立したとされる道で、明治一八年(一八八五)並行して人力車が走れる掘割の中山新道が完成するまでは国仲くになか筋と相川町を結ぶ往還道として利用された。「佐渡年代記」承応二年(一六五三)条に「相川町札の辻より中山通国中道中筋へ一里塚を築く」とあり、一里塚は峠の南方約一キロの沢根の中山に遺構が残る。峠にはかつて茶屋があり、同書文化一二年(一八一五)条に「中山峠往来の旅人、寒暑風雨等凌ぐため、八百屋町庄七と云もの、御役所え申立家作取立、煮売を始ル」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「中山道」の意味・わかりやすい解説

中山道【なかせんどう】

江戸時代の五街道の一つ。中仙道とも書き,木曾街道はその一部。日本橋から大宮,高崎を経て碓氷(うすい)峠を越えて信濃に入り,追分から塩尻に出,木曾を通って美濃に入り近江の草津で東海道と合流する。全67宿。碓氷,福島,贄(にえ)川に関があった。古代の東山道の近世的再編。北陸の30家の大名が参勤交代に往来。→板橋宿
→関連項目上尾[市]上松[町]安中[市]板鼻今須岩鼻浦和[市]愛知川[町]大木戸大久保長安大宮[市]桶川[市]小谷城柏原宿加須[市]加納軽井沢[町]木曾谷木曾福島[町]沓掛熊谷[市]鴻巣[市]五街道佐渡路醒井山東[町]塩尻峠下諏訪[町]宿・宿駅宿村大概帳新町[町]巣南[町]諏訪藩関ヶ原[町]高宮立科[町]垂井[町]茶壺道中妻籠伝馬騒動天明上信騒動東山道戸田[市]鳥居峠(長野)鳥居本長門[町]南木曾[町]奈良井日光御成道日光例幣使街道八風街道番場宿深谷[市]吹上[町]福島北国路本庄[市]松井田[町]御嵩[町]美濃路望月[町]吉井[町]和田峠蕨[市]

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山道」の意味・わかりやすい解説

中山道
なかせんどう

江戸時代における五街道の一つで、東海道に次ぐ江戸―京都間の重要な街道。東海道が本州の東海岸沿いの街道であるのに対し、中山道は中央部山脈の間を貫通する街道という意味でこの名称があり、前者を表街道とすれば、後者は裏街道にあたる。江戸前期には中仙道と書いたが、1716年(享保1)中山道に改めた。これはまた、木曽(きそ)11か宿を通過するので、木曽路・木曽街道などともよんだ。中山道はその始宿板橋(いたばし)(東京都板橋区)より守山(もりやま)宿(滋賀県草津(くさつ)市)まで67次、行程129里10町八間で、次の草津で東海道と合流するが、東海道の53次よりも宿次が多く、距離も六里余り長い。

 中山道の難所は碓氷(うすい)峠をはじめとして、和田、塩尻(しおじり)、鳥居(とりい)の三峠がこれに続き、木曽谷を通過したのち、馬籠(まごめ)峠を越えて平野部へと向かう。この間には幕府の重要な関所、碓氷・木曽福島の両関があり、通行人を厳しく検閲した。参勤交代の大名数は、東海道の146家に対して中山道は30家で、約5分の1程度であり、奥州道中の37家にも及ばない。これを反映して宿駅の常備人馬数も、東海道の100人・100疋(ぴき)に対し、中山道は50人・50疋(うち木曽11か宿ほか5~6か宿はその半分)にすぎず、また本陣数は一宿平均1.1軒、旅籠(はたご)屋数は27軒で、東海道の約半分である。とくに木曽11か宿などでは常備人馬の確保がむずかしく、2~3か宿の合体継立(つぎたて)が必要で、助郷(すけごう)人馬も山越えしたはるか遠方の村々から呼び集めねばならなかった。もっとも、交通量が東海道ほど過密でなく、休泊料も比較的安いこともあって旅行者に好まれ、京都の姫君の江戸輿(こし)入れの行列もこの道筋をとることが多かった。

丸山雍成

『長野県文化財保護協会編『中山道信濃26宿』(1980・信濃毎日新聞社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

国指定史跡ガイド 「中山道」の解説

なかせんどう【中山道】


長野県小県(ちいさがた)郡長和町和田と木曽郡木曽町吾妻にある街道跡。江戸時代に設けられた五街道の一つで、本州中部の内陸を江戸から草津宿(現在の滋賀県)まで通じており、信州の和田宿から和田峠への道、野尻(のじり)宿から三留野(みどの)宿へいたる与川道(よがわみち)、妻籠(つまご)宿から馬籠(まごめ)峠への3区間が「歴史の道」として整備され、1987年(昭和62)に国の史跡に指定された。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの翌年、江戸幕府は道路を整備し、街道各所に「宿駅」を置いた。中山道は、日本橋を起点に東海道と合流する草津宿まで67宿を置き、江戸から関東平野を抜け、碓氷(うすい)峠を越えて信州に入ると、長野県の中山道には25の宿場があり、ほとんどが山中を往来する道程だったが、東海道のような川留めを避けることができる利点から女性の旅人も多かった。そのため、中山道は将軍家に嫁ぐ姫宮たちの通行に利用され、なかでも幕末の公武合体策のために14代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁いだ和宮(かずのみや)の大行列は絵巻物のような豪華さだったと語り継がれている。現在は、歴史の道資料館かわちや(旧「旅籠河内屋」、長和町)や南木曽町博物館(旧脇本陣(わきほんじん)、南木曽町)などが復元整備されている。中山道は、さまざまな文学作品の舞台ともなり、馬籠出身の島崎藤村がみずからの故郷を舞台に歴史小説『夜明け前』を執筆した馬籠宿は、2005年(平成17)の合併によって岐阜県中津川市に編入されたが、旧本陣跡だった藤村記念館が残っている。和田宿へは、JR長野新幹線ほか上田駅から車で約1時間。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「中山道」の意味・わかりやすい解説

中山道 (なかせんどう)

江戸時代五街道の一つ。中仙道とも書いたが,幕府では1716年(享保1)に中山道と一定した。東海道に対して単に山道ともいう。木曾を通るので木曾路ともいう。江戸の北西の板橋宿を起宿として武蔵,上野,信濃,美濃を経,近江の守山宿を最後の宿として草津宿で東海道に合し,大津を経て京都に達する。板橋より守山まで67宿であるが,通常は草津,大津を加えて木曾街道六十九駅などという。途中に碓氷峠,和田峠,鳥居峠などの難所があり,碓氷(横川),福島には関所が置かれた。倉賀野で日光例幣使街道,追分で北国街道,下諏訪で甲州道中,洗馬(せば)で善光寺道(北国街道脇往還),関ヶ原および鳥居本で北国往還(北陸道)に合流する。江戸~草津間が129里10町余,京都までは135里34町余,東海道に比べて9里28町余長い。上野,信濃,越後,越中,加賀,美濃等の大名が参勤交代に通行したほか,日光例幣使や皇族の東下のおりにも利用された。宿の施設は東海道に次いだ。貝原益軒《木曾路之記》,大田南畝《壬戌紀行》,秋里籬島《木曾路名所図会》,歌川広重木曾街道六十九次》などがあり,幕府の制作した《中山道分間延絵図》《中山道宿村大概帳》がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「中山道」の解説

中山道
なかせんどう

木曾路・岐蘇(岨)路とも。俗に中仙道とも書いた。近世の五街道の一つで道中奉行支配に属した。江戸と京都を結ぶ東海道の裏街道的役割をはたし,宿駅は板橋から武蔵・上野・信濃・美濃・近江の各国をへて守山まで67宿。守山から先は草津で東海道に合流し,京都まで69宿ともいう。道中の碓氷(うすい)・福島には関所が設置されていた。鴻巣(こうのす)からは行田道,倉賀野からは例幣使(れいへいし)道,追分からは北国街道,塩尻からは伊那街道,洗馬(せば)からは善光寺道,大井からは岩村街道,垂井からは美濃路,関ケ原からは伊勢路・北国街道,鳥居本(とりいもと)からは朝鮮人街道がわかれる。東海道についで交通量が多く,おもな通行には大名30家余,日光例幣使,茶壺道中,和宮などの姫君の東下などがあった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中山道」の意味・わかりやすい解説

中山道
なかせんどう

江戸時代の五街道の一つ。正徳年間 (1711~16) 以前には中仙道とも書いた。江戸日本橋から板橋,大宮,高崎を経て,軽井沢,下諏訪,馬籠 (まごめ) ,加納,守山などを通って草津で東海道に合流する。全 67宿,130里余 (約 520km) 。碓氷 (うすい) ,木曾福島,贄川 (にえかわ) の3ヵ所に関所がおかれ,贄川-馬籠は木曾路と呼ばれたが,『木曾路名所図会』は中山道全宿と江戸周辺の街道をも含めている。各宿の定置人馬は 50人 50頭であるが,木曾路 11宿は 25人 25頭とされた。参勤交代の大名は 30家と,東海道の裏街道的地位にあった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「中山道」の解説

中山道
なかせんどう

江戸時代,江戸板橋から木曽を経て近江草津に至る街道。五街道
「中仙道」とも書く。江戸板橋から近江守山まで67宿を経て,近江の草津で東海道に合流する。東海道の裏街道として重要で,各宿駅に50人50頭の人馬が常備され,碓氷 (うすい) ・木曽福島の関所が設けられた。幕末,和宮降嫁の行列など要人の通行が目だった。参勤交代で利用した大名は前田家をはじめ約30家。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

事典・日本の観光資源 「中山道」の解説

中山道

(長野県木曽郡南木曽町)
遊歩百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中山道の言及

【木曾街道六十九次】より

…中山道が木曾谷を通る部分を木曾街道(木曾路)というが,広義には中山道全体をいう。中山道は江戸日本橋より発し信濃,美濃,近江を経由して京都三条大橋へと至る,東海道に次ぐ主要道路であった。…

【木曾路】より

…《続日本紀》によると702年(大宝2)岐蘇山道の工事に着工し713年(和銅6)に吉蘇路が完成し,翌年美濃守笠麻呂以下が賞されている。経路は東山道の本路に関するとする説と,江戸時代以降の中山道のように木曾谷を通過するとする説とがあり決し難い。前説をとると,現在の中央高速自動車道恵那山トンネルの上を通る神坂(みさか)峠へ,中津川市付近から至る東山道の改修あるいは付替えを意味するが,《三代実録》に〈此の地は美濃国府を去ること行程十余日〉というのに合わない。…

【五街道】より

…江戸幕府が直轄した主要な五つの陸上交通路。江戸を起点として四方に達する道で,東海道中山道甲州道中日光道中奥州道中をいう。名称は1716年(享保1)に幕府が公称を一定したが,民間では中山道を中仙道,木曾街(海)道といい,甲州道中を甲州街道ということも慣用された。…

※「中山道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

再生可能エネルギー

自然の活動によってエネルギー源が絶えず再生され、半永久的に供給され、継続して利用できるエネルギー。有限の資源である化石燃料などに代わる、新エネルギー(中小規模水力・地熱・太陽光・太陽熱・風力・雪氷熱・...

再生可能エネルギーの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android