精選版 日本国語大辞典 「孝謙天皇」の意味・読み・例文・類語
こうけん‐てんのう カウケンテンワウ【孝謙天皇】
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(西野悠紀子)
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718~770.8.4
在位749.7.2~758.8.1 称徳天皇として在位764.10.9~770.8.4
阿倍内親王・高野(たかの)天皇・高野姫(たかのひめ)尊とも称する。聖武天皇の皇女。母は藤原不比等(ふひと)の女光明皇后。738年(天平10)女性の身で皇太子となり,749年(天平勝宝元)聖武の譲位をうけて即位。752年東大寺大仏の開眼供養を行い,受戒して法名を法基(ほうき)と称した。758年(天平宝字2)大炊(おおい)王(淳仁天皇)に譲位。のち淳仁と不和となり,764年にはその庇護者藤原仲麻呂(恵美押勝)を近江に敗死させ,淳仁を廃して重祚(ちょうそ)(称徳天皇)。重祚後は僧道鏡を重く用い,西大寺や平城京東院の玉殿,由義宮(ゆげのみや)などの造営工事を行うなどして政治・財政の混乱をまねき,貴族の反感をかった。皇嗣を決定しないまま,770年(宝亀元)死去。
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第46代とされる天皇(在位749~758)。女帝。重祚(ちょうそ)して第48代称徳(しょうとく)天皇(在位764~770)となった。
[編集部]
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…同腹の姉妹に井上内親王,不破内親王がある。聖武天皇の正妻光明子は藤原不比等の女で718年(養老2)阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を,727年閏9月29日に基親王を生んだ。基親王は同年11月2日に皇太子に立てられたが翌年9月13日に没した。…
…769年(神護景雲3)大宰府管内豊前国の宇佐八幡神が僧道鏡を天皇にしたならば天下太平ならんと,称徳天皇に神託を奏上した事件。宇佐八幡宮の起源は不明だが,正史では《続日本紀》に737年(天平9)新羅の無礼を八幡神に告げたとあるのが初見。745年ころから同神が東大寺大仏の建立を助け,とくに銅と黄金の入手を助けたと信ぜられ,朝廷の崇敬を得た。750年(天平勝宝2)には封戸1400戸,位田140町が施入され,伊勢神宮をしのぎ,全神社中第1位を占める厚い崇敬を得た。…
…奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。…
…奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。…
※「孝謙天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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