温泉津村(読み)ゆのつむら

日本歴史地名大系 「温泉津村」の解説

温泉津村
ゆのつむら

[現在地名]温泉津町温泉津

現温泉津町の北部に位置し、西から北は日本海に面して日祖ひそ沖泊おきどまり・温泉津などの湊がある。谷間に新旧二つの温泉源(温泉津温泉)がある。

〔中世〕

大家おおえ温泉ゆの郷にある津(湊)から温泉津と称し、津とその周辺地域を含む。弘治四年(一五五八)二月一七日の毛利元就・同隆元連署状写(石見吉川家文書)に「温泉津」とみえる。明代の一五七七年に成立した「図書編」に、石見六津の一としてみえる「有奴津」は温泉津のこととされ、すでにこれ以前から中国にも名の知られた津であった。おそらく温泉津の成立は、中世の日本海水運が成立する平安末期までさかのぼると考えられる。温泉津は一六世紀前半の石見銀山の開発、とくに天文二年(一五三三)以降の急激な発展とともに銀の積出しと物資搬入の拠点港として重要視されるようになった。このため弘治二年春、石見制圧を目指して進出してきた毛利氏は、いち早く温泉津を押えようとし翌年にはこれに成功、同四年二月一七日河本かわもと(現川本町)の小笠原氏の制圧が実現するまでの間、温泉津に出入りする船から徴収する船役のうち五〇貫文が吉川経安に与えられている(前掲毛利元就・同隆元連署状写)

永禄元年(一五五八)に旧来温泉郷を領していた温泉氏が尼子軍と結んで温泉津を奪回したが(七月二六日「杉原盛重書状」横山家文書ほか)、同五年には石見を制圧した毛利氏は温泉津を直轄領として児玉就久と武安就安を温泉津奉行に任命し(同八年三月一二日「毛利氏奉行連署書状」益田家文書など)、温泉津を通行する船の管理(関銭の徴収)と近辺の諸浦の管理のほか、兵糧米の管理・輸送や町湯の管理にあたらせた(同八年八月一三日「毛利氏奉行連署書状」武井文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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