日本歴史地名大系 「邇摩郡」の解説
邇摩郡
にまぐん
〔古代〕
平城京二条大路跡出土木簡に「石見国迩摩」とみえる。天平宝字六年(七六二)のものとみられる造東大寺司解案(正倉院文書)に「土師嶋足石見国尓麻郡都智郷戸主土師当麻戸口」とみえる。「三代実録」元慶八年(八八四)六月二三日条によれば、邇摩郡大領外従八位上の伊福部真人安道らが部内の百姓を率いて石見国権守上毛野氏永館を包囲し、国印などを奪い、国衙の他の役人に与える事件が起こった。安道は那賀郡大領久米岑雄らと百姓二一七人とともに国司の政治を糾弾して蜂起したものだったが、仁和二年(八八六)五月、安道は徒二年・贖銅一〇斤、岑雄は贖銅九斤の罰を受け、ほかに与同の延暦寺僧一道らも徒一年ほかの刑に処されている(同書同年五月一二日条)。
「和名抄」には邇摩郡のうちに
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報